76
77
#地的に愉しむ青天を衝け
この頃(明治11年)の栄一邸は、深川福住町(江東区永代)にありました。現在その場所は…
\渋澤シティプレイス永代/
栄一が興した企業で、唯一渋沢名がつく「澁澤倉庫」さん本社ビルです。この場所で倉庫部を発足させ、今でも続いています。
#青天を衝け
78
79
#地的に愉しむ青天を衝け
#橋本左内 先生が出頭させられた北町奉行所は、現在の東京駅日本橋口付近にありました。
ここは桜吹雪で有名な #遠山の金さん の舞台としても知られてますね🌸
#青天を衝け #安政の大獄
80
#地的に愉しむ青天を衝け
五代友厚さんの生家跡には、世界地図が紹介されています。これは五代のお兄さんが父に命じられ、高橋景保作成の地図を精緻に模写したものです。
五代さんが「大きな目で日本を見れた」のは、世界を俯瞰できるこの「地図」のおかげだったかも知れませんね😌
#青天を衝け
81
#地的に愉しむ青天を衝け
無念、小栗忠順様
小栗忠順様は近代産業のみならず、横須賀の発展に貢献しました。寒村だった横須賀に「横須賀製鉄所」を建設、そこには栗本鋤雲様の助けもありました。
そのお二人の胸像が、横須賀市自然・人文博物館の庭に並んでおり...感慨深いです。
#青天を衝け
82
#地的に愉しむ青天を衝け
この当時(1867年)横浜港には、幕府の機関として関税及び外務全般を取り扱う「神奈川運上所」が設置されていました。
ここに篤太夫は立ち寄った可能性あります...運上所は外国人居留地の目の前、篤太夫はここで何を想ったか気になりますね。
#青天を衝け
83
#地的に愉しむ青天を衝け
#渋沢栄一 と #尾高惇忠 の家の位置関係です🏠
両家間の距離は現在の道路で約1.4km、栄一は論語を習う為にこの距離を歩きました。
そのため、この道は「論語の道」と言われているそうです💡
#青天を衝け
84
#地的に愉しむ青天を衝け
全国測量の話が出てきました🙌
明治2年に「国土地理院」の前身となる「民部官庶務司戸籍地図掛」を設置し、近代測量に着手します🗾
国土の開発事業の土台といえる測量・地図作成は、近代化への国家プロジェクトの一つでした😉
#青天を衝け
85
栄一邸は、約580坪(当初390坪・追加190坪)あったそうです(広大...)
実際の形状は不明ですが、現街区の約8割を占める面積でした。
となると🤔現在のヨネックスさん(@yonex_jp)本社の一部は、栄一邸だった可能性がかなり高いです🏸
#青天を衝け
#地的に愉しむ青天を衝け
#文京区湯島
86
#地的に愉しむ青天を衝け
今日の #青天を衝け は深谷の話が多かったですね😌ということで深谷の地図をどうぞ!
「横浜焼き討ち計画」を議論したのは #尾高惇忠 宅、そして江戸から武器を運んできた場所が中瀬河岸でした。
#渋沢栄一 宅も含め、今の地図にあてるとこんな位置関係です🗾
87
岩倉具視さんの岩倉家
地名由来の人名だった!
具視さんの蟄居生活を覚えていますか?あの場所は岩倉村(現京都市左京区岩倉)ここが岩倉家の由来となった地名なんです。
先祖の久我家の所領が岩倉村で、その地名にちなんだそうです。
#地的に愉しむ青天を衝け
#青天を衝け
88
#地的に愉しむ青天を衝け
西郷隆盛さんの最後の戦い、地理院地図で見ると分かりやすいです。
西郷さんが最後に立て篭ったのは、城山の洞窟。ここは三方を山に囲まれた天然の要塞でした。
ここであれば鹿児島市街からの砲撃を、一時的に凌げたのではないでしょうか。
#青天を衝け #西南戦争
89
90
#地的に愉しむ青天を衝け
この当時(明治2年)の大隈重信さん邸は築地、現在の「新喜楽」さん周辺です。
明治4年発刊の東京大絵図では大隈邸を見つけることができます。結構難しいですが、チャレンジしてみてください!
meguro-library.jp/data/oldmap/ma…
#青天を衝け
#築地梁山泊
91
江東区南砂に「尾高橋」という橋がありますが、尾高惇忠兄いの次男 尾高次郎氏の功績(砂町運河開削)を称え名付けられた橋です。
ちなみに #青天を衝け のテーマ音楽の指揮者 尾高忠明氏は、この次郎氏のお孫さん。惇忠さんの子孫には他にも高名な方が一杯。さすが兄い!
#地的に愉しむ青天を衝け
92
#地的に愉しむ青天を衝け
鳥羽方面からの銃声が聞こえ、伏見でも戦が始まりました。
旧幕府軍は伏見奉行所、新政府軍は御香宮に本陣をおき、大手通りを挟んだ攻防となりましたが、薩摩藩の放った砲弾が弾薬庫に命中し伏見奉行所は焼け落ちたと言われます。
#青天を衝け
#鳥羽・伏見の戦い
93
そんな大隈さんの大好物は、佐賀銘菓丸房露(丸ぼうろ)
大好きすぎて「佐賀から東京にわざわざ職人を呼び丸房露を振る舞った」エピソード大好きです。
画像は大隈さんが愛した、鶴屋さんの丸房露!おいしいですよね😉
marubouro.co.jp
#佐賀市
#地的に愉しむ青天を衝け
#青天を衝け
94
#地的に愉しむ青天を衝け
篤二さんは当時、穂積陳重・歌子さんのお宅で生活していました。その場所は牛込払方町9(現:新宿区払方町)にありました。
後に、お隣には結婚後の大内くにさんが引越してきて仲良く付き合っていたそう!胸熱ですね🥲
#青天を衝け
95
#地的に愉しむ青天を衝け
栄一親子が江戸で武州藍を売り込みに行ったのは「神田紺屋町」現存する地名です🗾
江戸時代、染物職人が多く住んでいたのが地名の由来です。
当時はここに藍染川という川が流れ、ここで染物を晒していました☺️(現在はありません)
#青天を衝け #渋沢栄一
96
#地的に愉しむ青天を衝け
明治11年3月、栄一達が設立した東京商法会議所ですが、その場所...丸の内だと思うじゃないですか😏
銀座6丁目でした!
当時の丸の内は陸軍の駐屯地でしたので、現在の東京商工会議所(丸の内二重橋ビル)とは別の場所でした。
#青天を衝け
97
#地的に愉しむ青天を衝け
尾高惇忠兄いが逝去したのは、深川福住町の渋沢栄一深川別邸(現澁澤永代ビル付近)でした。
若い頃から栄一さんと一緒に過ごした惇忠兄い、その最期の場所も栄一さんと近い場所とは、なかなか感慨深いです...
合掌
#青天を衝け #東京都江東区
98
谷中霊園には、青天を衝けに登場した人物のお墓がたくさんあります。
仏留学仲間の高松陵雲さん、大蔵省同僚の玉乃世履さん、商法会議所設立メンバーの福地源一郎さんなどなど...
地図を片手にお墓参りはいかがでしょうか?
#地的に愉しむ青天を衝け
#青天を衝け
99
#地的に愉しむ青天を衝け
なんとなく憎まれ役っぽいイメージが強い #島津久光 公ですが...廃藩置県の際に怒りで花火を打ち上げた話や、生涯髷を結い続けた(明治20年没)エピソード大好きです。
そんな久光公、今も地図上に存在しています。場所は #鹿児島市 の #照國神社 付近です。
#青天を衝け
100
#地的に愉しむ青天を衝け
五代さまは鹿児島城下城ケ谷(現鹿児島市長田町)出身です。
このエリアは西南戦争の激戦地「城山」の裏側にあり、西南戦争時に生家は焼かれたそうです。周辺には西郷隆盛公が隠れた洞窟や、終焉の地があります。
#青天を衝け #五代友厚
#鹿児島県鹿児島市