#吾妻鏡 承元4年(1210)11月22日条 \ 御持仏堂で聖徳太子の御影(南無仏像:2歳のときの聖徳太子が緋の裳(ひのも)を着けて合掌する姿の像)が供養されました。これは源実朝の日頃からの祈願によるものとのことです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月9日条 \ 和田義盛がきょうも御所に参上。一族九十八人を引き連れて、御所の南庭に列座しました。これは甥(おい)の和田胤長が赦免されるように申請するためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月23日条 \ 三浦党が大庭景親の一族の館に火を放ちました。これを知った景親は軍議を行い、黄昏時(たそがれどき)ではあるが三浦党が合流する前に敵をたたくことを決断。石橋山の頼朝の陣に襲いかかりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)11月25日条 \ この日、北条時政が京へ入り、源義経、源行家の反逆について源頼朝が不満を感じていることを後白河法皇に細かく申し入れました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)4月21日条 \ 梶原景時の飛脚が鎮西から鎌倉へ到着。書状には、平家との合戦の経過とともに、「鎌倉殿の御意向に背いているとたびたびいさめたが、義経は勝手な振る舞いを改めなかった」と、義経の不義に対する訴えが記されていました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)3月10日条 \ 源頼家が突然、病にかかりました。14日には病が治り、沐浴(もくよく)を行ったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)11月10日条 \ 梶原景時を訴える訴状を源頼家に渡すことをためらっていた大江広元に対し、和田義盛が「景時を怖れているのか」と一喝。「鎌倉殿に渡すのか、渡さないのか、今はっきりと返答しろ」と迫りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)7月26日条 \ 安芸国壬生庄(現在の広島県北広島町壬生)の地頭に関する裁定が、源実朝の御前で行われました。実朝が直(じか)に政道を裁断するのは、これが初めてです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月29日条 \ 北条時房・泰時らが大軍を率いて上洛したことが、後鳥羽上皇のもとに伝わりました。朝廷では皆が驚き、肝を冷やしたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)1月23日条 \ 三浦義澄が亡くなりました。享年74。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久元年(1219)7月25日条 \ 源頼茂の一党は、合戦の際に内裏の区画内の建物に火を放ちました。これにより、仁寿殿(じじゅうでん)の観音像、応神天皇の御輿(みこし)に加え、大嘗会(だいじょうえ)や即位式の際に使用する蔵人方の装束や霊物などが焼失しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)5月28日条 \ 源頼家は新熊野社(いまくまのしゃ)の僧が進上してきた境の絵図を確認すると、自ら筆を取って絵図の中央に線を引きました。そして、「所領の広い狭いは運による。今後、所領問題についてはこのように裁断する」と申し付けました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月23日条 \ 公卿や殿上人の罪名をはじめ、洛中の事についての取り決めがなされました。大江広元が文治元年(1185)の先例(源頼朝による行家、義経に味方した廷臣の処罰の奏請(そうせい))を考慮して計らい、事書(ことがき)を整えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月20日条 \ 源頼朝の御使(おつかい)として、範頼と義経が数万騎を率いて入京。範頼は勢多(現在の滋賀県大津市)から入京し、義経は宇治(現在の京都府宇治市)から入京し、義仲軍と対峙(たいじ)しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月15日条 \ 去る7日、源頼朝の息子・千幡(のちの源実朝)に対し、従五位下の位記と征夷大将軍の宣旨が下されて、その文書が鎌倉に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)7月17日条 \ 源頼朝が奥州の藤原泰衡を討伐するため出陣しました。軍勢は三手に分けられ、頼朝率いる大手軍の先陣は畠山重忠が務めました。東海道軍の大将軍は千葉常胤と八田知家、北陸道軍の大将軍は比企能員と宇佐美実政が務めています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治2年(1186)3月22日条 \ 静御前に対する尋問が行われました。源義経の居場所は知らないと言い張ったままだったそうです。また、義経の子を身ごもっており、出産後には京へ帰るように指示がありました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治3年(1189)閏4月30日条 \ 陸奥国で藤原泰衡が源義経を襲撃しました。これは一つには勅諚、もう一つには源頼朝の命に従ったためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久元年(1219)7月19日条 \ 左大臣・九条道家の賢息・三寅が関東に下向しました。これは政子が亡き源頼朝との深い縁を重んじて京から新たな鎌倉殿として迎えようと朝廷に申請していたもので、先月3日に宣下がありました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)5月12日条 \ 和田義盛は「上総介(上総国の国司)に推挙してほしい」と、源実朝へ内々に頼んでいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月7日条 \ 父・義朝の旧跡である亀谷には、義朝の没後を弔うため、岡崎義実が寺院を建立していました。このため頼朝は、この地に新たな館を建てることはやめました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月23日条 \ 去る16日に北条泰時が送った飛脚が鎌倉に到着しました。合戦が無事に終わり、世の中が静まった経緯が詳しく記された書状が開かれると、皆が大いに喜びました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)1月20日条 \ 梶原景時が子息を伴い、所領である相模国一宮を発(た)ちました。景時は上洛するつもりだとウワサされていたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)10月14日条 \ 源実朝の御台所として下向する前大納言・坊門信清の息女(千世)を迎えるため、北条政範、結城朝光、畠山重保らが京へ向かいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久元年(1190)11月9日条 \ 源頼朝が院御所と内裏に参上しました。後白河法皇に拝謁した頼朝は二人だけで長時間にわたり会談し、治世についても意見を交わしたようです。 #鎌倉殿の13人