#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ 源実朝を殺害した公暁は、追手をまいて鶴岡八幡宮から離れると、三浦義村に使者を送り、「自分こそが鎌倉殿にふさわしい。速やかに手はずを整えるように」と指示しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月22日条 \ 北条泰時が平盛綱ら十八騎の軍勢を従え、京へ出発しました。その後、北条時房、三浦義村らが出発しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月24日条 \ 大庭景親率いる平家方に追い詰められた源頼朝は、髻(もとどり)の中から正観音像を取り出し、巌窟(がんくつ)に安置しました。理由を問う土肥実平に頼朝は、「自分が討たれた際にこの本尊を見れば、後々まで非難されるだろう」と答えています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 \ <承元2年(1208)2月10日条> 源実朝が疱瘡(ほうそう)にかかりました。とても容体が悪いようです。 <承元2年(1208)2月29日条> 源実朝が回復し、沐浴(もくよく)を行いました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月29日条 \ 源頼家が伊豆国修善寺に下向しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)11月27日条 \ 和田義盛は、上総介(上総国の国司)を望んでいたことについて、内々の取り計らいがあり、しばし結果を待つようにと言われ、手をたたいて喜んだそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 三浦義村・胤義兄弟は、当初は和田義盛にくみして御所の北門を固めることを誓い、起請文も書いていましたが、のちにそれを反故(ほご)にしました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)6月16日条 \ 武田信義の嫡男・一条忠頼が野望を抱いているとのうわさを察した源頼朝が、忠頼を誅殺することを決断。夕方になって忠頼を召し出し、御所の中で誅殺しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)7月13日条 \ 後鳥羽上皇が鳥羽の行宮(あんぐう)から隠岐国に遷(うつ)られました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保4年(1216)11月24日条 \ 源実朝が、前世に住んでいた医王山に参拝するために中国へ渡航することを思い付き、陳和卿に唐船を造るように命じました。北条義時と大江広元がしきりに実朝を諫(いさ)めたものの受け入れられず、造船が決定したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久5年(1194)8月18日条 \ 大姫が一条高能に嫁ぐように内々に計っていた政子ですが、大姫は決して承諾することはなく、そのようなことになれば入水(じゅすい)すると語ったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)閏7月20日条 \ 義時、大江広元、三善康信らが審議を行い、平賀朝雅を誅殺することを決断。在京御家人らに命じるため、使者を京へ送りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)2月18日条 \ 昨日、源義経が渡辺から渡海しようとしたところ、暴風のため多くの船が破損。しかし義経は丑の剋(午前1時~3時)に五艘(そう)の船で出て、卯の剋(午前5時~7時)には阿波国椿浦(現在の徳島県阿南市)に着きました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)9月3日条 \ 源頼朝らが民家に宿泊していたところ、平家方の安房国の豪族・長狭常伴が襲撃を計画。三浦義澄らがこれを迎え討ちました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)5月19日条 \ 阿野全成に謀反の疑いがあり、御所内に拘禁されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)8月19日条 \ 訴えられた源頼家は、安達景盛の誅殺(ちゅうさつ)を命じました。しかし、政子が景盛をかばい、「景盛は信頼が厚く、頼朝が特に情けをかけていた。誅殺すれば必ず後悔するでしょう」と頼家を諭しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)閏7月20日条 \ 辰の剋(たつのこく/午前7時~9時)に北条時政が伊豆国北条に下向しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月5日条 \ 源頼家から北条時政を誅殺するように命じられた和田義盛が、このことを時政に伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 三浦義村・胤義兄弟は「先祖より源氏の恩恵を受けてきた。親戚に従って主君に戦いを挑めば、天罰は免れない」と後悔し、北条義時の屋敷に参上して和田義盛が挙兵したことを伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月5日条 \ 夜になって、幕府軍が大井戸の渡しを渡って官軍に戦いを挑み、これを討ち破りました。藤原秀康、三浦胤義らは警固していた場所を放棄し、京へ退却したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)12月20日条 \ 去る6日に源実朝が右大臣に任じられました。そこで本日、政所始(はじめ)が行われました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月21日条 \ 退却する平維盛率いる平家軍に追い打ちをかけ、上洛を目指す源頼朝。しかし、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らに「まずは東国を平定してから」といさめられ、追撃を断念しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)7月5日条 \ 源実朝が夢のお告げにより、ニ十首の和歌を住吉社に奉納しました。使者となったのは、藤原定家の門弟・内藤知親。この機会に実朝は、建永元年(1206)に習い始めたばかりのころの和歌三十首を選び、添削を受けるために定家へ送りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承5年(1181)閏2月4日条 \ 平清盛が亡くなりました。自らの死に際し清盛は、葬儀や仏事をどのように行うのかだけではなく、子孫らはひたすら東国を帰服させる計略を立てて実行せよ、と遺言を残したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月25日条 \ 先月22日からきょうの明け方までに、しかるべき東国武士はすべて上洛し、北条義時のもとでその名簿が書き留められました。軍勢は総勢十九万騎です。 #鎌倉殿の13人