#吾妻鏡 寿永元年(1182)11月14日条 \ 愛妻・りく(牧の方)の兄である宗親を源頼朝が処罰したことを不満に思った北条時政は、鎌倉を去り、所領である伊豆へと帰っていきました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久2年(1220)12月1日条 \ 午の剋(うまのこく/午前11時~午後1時)に三寅の着袴(ちゃっこ)の儀が行われました。着袴の儀とは、子どもの成長を祝って初めて袴を身に着ける行事のことです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)7月20日条 \ 源頼家が急に病にかかりました。苦痛はただごとではないほどだったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 和田義盛に謀反の疑いがありましたが、けさ起こるとは思わず、北条義時らはゆっくりと構えていたため、御所では特に警固の備えを行っていませんでした。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)2月23日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に駿河国から鎌倉に飛脚が到着し、「阿野時元が自害した」と報告しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月24日条 \ 寅の剋(とらのこく/午前3時~5時)に事書を託された安東光成が、関東を出て上洛しました。光成は北条義時・泰時父子に近侍していた武士で、京で処置すべきことを義時が自ら光成に指示をしたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)11月13日条 \ 梶原景時は自身を訴えた御家人たちの訴状に対して弁明することができず、子息や親類らを率いて相模国一宮に下向しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)4月11日条 \ このところ武蔵国に蟄居(ちっきょ)していた稲毛重成が、北条時政の招きに応じ、従者を率いて鎌倉に参上しました。鎌倉内は騒がしく、近国の御家人たちが群参して武具が整えられているというウワサがあったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)12月28日条 \ 平清盛の五男・重衡が南都を焼き払い、東大寺、興福寺の堂塔をはじめ、仏像や経論が灰となりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久元年(1190)11月9日条 \ 日没になり後白河法皇の御所から退出した頼朝は、続いて閑院内裏に参上して後鳥羽天皇に拝謁。そのあと閑院内裏内の鬼の間にて、摂政・九条兼実と初対面しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久3年(1192)3月16日条 \ 京より鎌倉に飛脚が到着し、去る13日の寅の剋(とらのこく/午前3時~5時)に後白河法皇が六条殿で亡くなったと伝えられました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保2年(1214)6月13日条 \ 将軍家領の年貢について、源実朝が「この秋から三分の二を免除する。おおむね毎年一箇所を順番に免除するように」と命じたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)8月19日条 \ 妾(めかけ)のことについて、安達景盛が源頼家を恨んでいるという訴えがありました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)2月22日条 \ 派遣された御家人たちが駿河国安野郡に到着し、阿野時元とその一党を討ち取りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月20日条 \ 源頼朝の一党が相模に向けて出陣しました。ちなみに、以仁王の令旨(りょうじ)を御旗の横上に付けていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月21日条 \ 和田胤長の娘・荒鵑(6歳)が、父が遠くに行ってしまったことを悲しむあまり病気となり、ついに亡くなりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)6月30日条 \ 源頼朝の娘・三幡が亡くなりました。母・政子は悲嘆し、周囲の人間の悲しみは記しきれないほどだったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)3月12日条 \ 北条義時、北条時房、北条泰時、大江広元が政子の屋敷に集まり、後鳥羽上皇の院宣について、「『追って回答します』と返答したため、速やかに決定しなければ後鳥羽上皇の機嫌を損ねることになるかもしれない」と審議があったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)3月16日条 \ 京から鎌倉へ戻った波多野朝定が、去る6日の除書を持参。源実朝が左大将を兼任することになりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)12月12日条 \ 源頼朝が大倉御所に入ると、御家人たちが侍所に参上。頼朝を鎌倉の主(あるじ)と認め、主従の契りを交わしました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)1月12日条 \ 豊後国の臼杵惟隆とその弟・緒方惟栄が源氏に対する思いを持っているという情報が入ったため、彼らを味方に付けて九州に渡り、平家に攻勢をかけるという評定がなされました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)3月1日条 \ 高野山大塔料所である備後国大田荘の年貢の未納について、寺家から訴えがありました。同地の地頭は、三善康信。審議が行われましたが、高野山の僧と康信の代官との間で口論となり、源実朝がしばらく裁決を待つように命じました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治2年(1186)3月1日条 \ 源頼朝の命により、義経の愛妾(あいしょう)・静御前が京から鎌倉に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)8月24日条 \ 岡崎義実が出家しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)2月1日条 \ 源範頼軍が豊後国に渡り、北条義時らが最初に上陸しました。そして、葦屋浦(現在の福岡県遠賀郡芦屋町の西浜町・白浜町・幸町一帯の港湾)にて、原田種直らと交戦しました。 #鎌倉殿の13人