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午後8時すぎからは #皆既月食 。月が地球の影に入り、赤銅色の月が夜空に浮かびます。 #吾妻鏡#玉葉 など平安末期~鎌倉時代の書物や歌にも月食が登場します。 いにしえの人々に不吉と恐れられた赤い月など #天変 を記録していくのが天文博士の本分。晴明公も幾度となく観測されたことでしょう。
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「鎌倉殿の13人」に備え、吾妻鏡復習してるんだけど、頼朝公を大泉洋殿だと思って読むと全く集中できない。 #鎌倉殿の13人 #吾妻鏡
#三谷幸喜 さんが 「これが原作のつもりで書いている」 と話されている『#吾妻鏡』。 この史書には、治承4年(1180)の「以仁王の乱」をはじまりとする鎌倉幕府の歴史が記されています。そこで第3回から、ドラマで描かれた主なエピソードをご紹介していきます。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)4月27日条 \ 以仁王の令旨(りょうじ)が伊豆の北条館に到着。持ってきたのは源行家。源頼朝は正装の水干に着替え、謹んで令旨を開きました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)5月26日条 \ 源頼政が平家軍2万と宇治で戦い、敗死。以仁王も最期を遂げました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)6月19日条 \ 三善康信の使者が北条へ到着。「以仁王の令旨を受けた源氏はすべて追討せよという命令が出されています。早く奥州へお逃げください」と源頼朝に都の情勢と自身の考えを伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)6月27日条 \ 都で大番役を務めていた三浦義澄が、相模の所領に戻る途中に北条を訪れました。ちなみに、しばらくの間、密談をしたようですが、その内容は不明です。 #鎌倉殿の13人
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高楯黒(たかだてぐろ) 「吾妻鏡」に登場する奥州第一の駿馬。藤原国衡(ふじわらのくにひら)の乗馬。 国衡は巨漢だったようだが、毎日、そんな重い主人を乗せて平泉の高山に三度駆け登っても汗もかかないほど強靭な馬だったそうだ。 写真:木曽馬系和種馬 銀次 #吾妻鏡 #高楯黒
#吾妻鏡 治承4年(1180)7月10日条 \ 山内首藤経俊に合流を呼びかけるため、使者として向かった安達盛長ですが、「呼びかけに応じないばかりか、さんざん悪口を言われた」と報告しています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月6日条 \ 源頼朝は占いを行わせ、山木兼隆攻めの日時を「17日寅卯の剋(とらうのこく/午前3時~7時)」に決めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月6日条 \ 源頼朝は土肥実平、岡崎義実らを一人ずつ人気のない部屋に呼び、「今まで口に出して言わなかったが、お前だけが頼りだ!」と丁寧に声をかけました。ちなみに、工藤茂光、佐々木盛綱も頼朝から声をかけられています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月17日条 \ 佐々木定綱・経高・盛綱・高綱の兄弟4人が未の剋(ひつじのこく/午後1時~3時)に北条に到着。源頼朝は感動の涙を浮かべながら「お前たちが遅れたから、けさ合戦することができなかった」と声をかけました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月17日条 \ 祭りでにぎわう牛鍬大路(うしくわおおじ)を避け、蛭嶋(ひるがしま)通りを進むことを進言する北条時政。これに対し、源頼朝は「大事を始めるのに裏道を使うことはできない」と却下し、合戦ではまず火を放つように命じました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月17日条 \ 堤館に到着した源頼朝の郎党たち。味方が館の後ろに回り込むと、佐々木秀義の次男・経高が前庭へと進み、矢を放ちました。「是(これ)、源家(げんけ)の平氏を征する最前の一箭也(いっせんなり)」と記されています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月17日条 \ 兵を送り出した源頼朝は館の縁側に出て、放たれた火により敵陣から煙が上がるのを待っていました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月19日条 \ 源頼朝は、山木兼隆の縁者である中原知親を土地の人々を悩ませていたと断じ、知親の所領を取り上げました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月19日条 \ 世情が落ち着くまでの間、身の安全を図るため、政子らが伊豆山権現の文陽房覚淵のもとへ向かいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月20日条 \ 源頼朝の一党が相模に向けて出陣しました。ちなみに、以仁王の令旨(りょうじ)を御旗の横上に付けていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月23日条 \ 三浦党が大庭景親の一族の館に火を放ちました。これを知った景親は軍議を行い、黄昏時(たそがれどき)ではあるが三浦党が合流する前に敵をたたくことを決断。石橋山の頼朝の陣に襲いかかりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月24日条 \ 大庭景親率いる平家方に追い詰められた源頼朝は、髻(もとどり)の中から正観音像を取り出し、巌窟(がんくつ)に安置しました。理由を問う土肥実平に頼朝は、「自分が討たれた際にこの本尊を見れば、後々まで非難されるだろう」と答えています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月24日条 \ 再起を図るため、箱根湯坂を経て甲斐へと向かう北条時政・義時父子。一方、宗時は早河(現在の神奈川県小田原市)あたりで伊東祐親の軍勢に囲まれ、討ち取られました。また、工藤茂光も亡くなりました。 #鎌倉殿の13人
#鎌倉殿の13人』の原作が #吾妻鏡(三谷氏談)とすると、吾妻鏡を愛読し写本を収集&増補した上に影響受けて幕府開いたのが家康なので、来年の『#どうする家康』は鎌倉殿沼にハマりコレクションを極めたファンが自らの物語を描き始めるドラマという解釈ができ、今年来年は長編2部作として楽しめるはず。
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月24日条 \ 源頼朝の跡を追い、峰や谷を探し回る大庭景親率いる平家方。そんな中、梶原景時が頼朝を見つけますが、思うところがあり、痕跡はないと偽ってその場を立ち去りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月24日条 \ 源頼朝の敗戦を知り、居城へ引き返す三浦党。しかしその途中、由井浦(現在の由比ヶ浜)で畠山重忠と遭遇し、戦いとなりました。郎党50余りを討ち取られた重忠が退いたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月29日条 \ 8月28日に土肥の真名鶴崎(現在の真鶴岬)から船に乗った源頼朝は、翌29日に安房国猟島(現在の千葉県鋸南町竜島)に到着しました。 #鎌倉殿の13人