#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月17日条 \ 上総広常の祈願書には、3か年の間に ・神田20町を寄進する事 ・先例に沿って社殿を造営する事 ・一万回矢を射る流鏑馬(やぶさめ)を挙行する事 という願が立てられていました。 これは、源頼朝の祈願の成就と東国の泰平を願ってのものでした。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 貞応3年(1224)6月13日条 \ 北条義時が巳の剋(みのこく/午前9時~11時)<または、辰の剋(たつのこく/午前7時~9時)>に亡くなりました。享年62。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月8日条 \ 上総広常は生前、上総国一宮<現在の玉前(たまさき)神社>に甲(よろい)一領を奉納していました。甲の前胴と後胴を結ぶ紐(ひも)には、1通の祈願書が結びつけられていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月17日条 \ 上総広常の祈願書のことを知った源頼朝は、広常を誅殺したことを後悔したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治3年(1189)閏4月30日条 \ 藤原泰衡の襲撃に対し、源義経の家人らが防戦しますが、すべて敗北。義経は(衣河館の)持仏堂に入ると、まず妻と娘を殺し、次いで自害したそうです。 #鎌倉殿の13人
今夜は #鎌倉殿の13人 の最終回。 [総合]夜8時ほか ※15分拡大版です! 鎌倉幕府の歴史が記された #吾妻鏡 は、#徳川家康 も愛読したと言われています。 鎌倉時代に思いをはせながら、最期を見守ります。 #日曜夜8時は大河ドラマ #どうする家康 nhk.or.jp/kamakura13/?ci…
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月23日条 \ 鎌倉へ向かう途中で不慮の死を遂げた畠山重忠。彼の死を悲嘆しない者はいなかったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 貞応3年(1224)6月12日条 \ 辰の剋(たつのこく/午前7時~9時)に北条義時が病気になりました。このところ体調を崩していましたが、特別なことはありませんでした。しかし、いまは危篤です。 #鎌倉殿の13人
脚本の #三谷幸喜 さんが「これが原作のつもりで書いている」と話されている『#吾妻鏡』。 #徳川家康 も愛読していたといわれています。 「#鎌倉殿の13人」公式HPでは、これまでに描かれた主なエピソードをご紹介しています。 nhk.or.jp/kamakura13/spe…
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月22日条 \ 嫡男・重保が誅殺され討伐軍が迫っていると知った畠山重忠は、「梶原景時は館に撤退して途中で殺された。それは命を惜しむようであり、企てがあったようにも思われた。このように推察されては面目がない」と郎党に語り、戦いに身を投じました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月19日条 \ 政子が居並ぶ御家人たちを前に、「源頼朝様が朝敵を征伐し、幕府を開いて以降、その恩は山よりも高く、海よりも深い。三代にわたる将軍の遺跡を守るように。後鳥羽上皇方に付きたければ、今すぐに申し出なさい」と語りかけました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ きょうの不祥事については、前々から異変を示すような出来事があったようです。そのひとつとして、源実朝が縁起の良くない和歌を詠んでいました。 出(いで)ていなば 主(ぬし)なき宿(やど)と なりぬとも 軒端(のきば)の梅よ 春を忘るな #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月23日条 \ 鎌倉に帰還した義時は、父・北条時政に「畠山重忠の弟や親類のほとんどは他所(よそ)におり、戦場に赴いたのはわずか百余人でした。謀反を企てたという疑いは偽りであり、とてもあわれです。悲涙を抑えることができませんでした」と語りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 大江広元が幕府の文書や記録を守るために、政所へ戻りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)7月9日条 \ 北条義時が大倉郷の南の山裾に寺院を建立するように命じました。これは昨日、夢の中に薬師十二神将のうちの戌(いぬ)の神が現れ、「今年の参拝は何事もなかったが、来年の拝賀の日は源実朝の供をしないほうがよい」と告げたためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治2年(1186)4月8日条 \ 静御前の舞を見た源頼朝は「義経を慕い、別れの曲を歌うとはけしからん」と不満を漏らしますが、これを聞いた政子は「長年の関係を忘れ、義経を慕わないのであれば淑女ではない」と弁明し、静御前を称賛したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)6月23日条 \ 源頼家の命により、八田知家が阿野全成を誅殺しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月5日条 \ 源頼家が比企能員らが滅亡したことを知りました。その憂いと憤りは、こらえられないほどすさまじいものだったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 \ <建保5年(1217)11月8日条> 大江広元が病気にかかり、目を患い、腫物(はれもの)などもできたようです。 <建保5年(1217)12月10日条> 大江広元の病気が治りました。しかし、視界が暗く、黒白を見分けることもできないようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保3年(1215)1月8日条 \ 伊豆国から鎌倉に飛脚が到着。今月6日の戌の剋(いぬのこく/午後7時~9時)に北条時政が亡くなりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月28日条 \ 兄・曽我十郎は、襲撃の中で仁田忠常に立ち向かい、討たれました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)9月19日条 \ 2万騎を率いて源頼朝のもとへ合流した上総広常。しかし、頼朝から遅参を叱責されます。広常はこの頼朝の姿に感銘を受け、従うことを決めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月6日条 \ 源頼家から北条時政の誅殺を命じられていた仁田忠常が亡くなりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁2年(1202)8月23日条 \ 頼時が三浦義村の娘(初)と結婚しました。 #鎌倉殿の13人
#三谷幸喜 さんが 「これが原作のつもりで書いている」 と話されている『#吾妻鏡』。 この史書には、治承4年(1180)の「以仁王の乱」をはじまりとする鎌倉幕府の歴史が記されています。そこで第3回から、ドラマで描かれた主なエピソードをご紹介していきます。 #鎌倉殿の13人