#吾妻鏡 建仁3年(1203)8月27日条 \ 頼家の弟・千幡と長男・一幡への分割譲与の話を聞いた比企能員は、ひそかに立腹し、恨みを抱いたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)8月2日条 \ 源範頼が起請文を書き、兄・頼朝へ献上しました。これは範頼が謀反を企てていると頼朝が聞き及び、尋ねられたためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)2月22日条 \ 源義経に背後から攻められた平宗盛らは海上に逃れ、屋島から撤退。この日、梶原景時をはじめとする坂東武者たちが、百四十余艘の船で屋島の磯に到着したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月20日条 \ 畠山重保が武蔵国より鎌倉に到着しました。これは、稲毛重成の招きによるものだったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)8月17日条 \ 源範頼が伊豆に下向しました。帰参の時期は定められておらず、配流であったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月17日条 \ 兵を送り出した源頼朝は館の縁側に出て、放たれた火により敵陣から煙が上がるのを待っていました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)4月29日条 \ 去る15日、後鳥羽上皇から対面しようという仰せが政子にありました。しかし政子は、「片田舎の老尼が天子様に拝謁するのは恐れ多い」とこれを辞退しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)3月15日条 \ 政子の使者として、北条時房が千騎を従えて上洛しました。これは、後鳥羽上皇の院宣について回答し、親王の下向について催促するためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)11月3日条 \ 源義経、源行家が再起を図るため京を離れ、西海へと向かいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月19日条 \ 源頼朝に敗れ、捕らえられた伊東祐親。身内からの嘆願により誅殺(ちゅうさつ)は免れ、罪名が決まるまで三浦義澄に預けられることになりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月5日条 \ 謀反を起こした和田義盛の後任として、北条義時が侍所別当に就きました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)6月30日条 \ 三幡の乳母夫(めのと)である中原親能が、彼女の死を悼み出家しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 御所の西南にある政所の前で、御家人たちが和田義盛の一党を相手に防戦。三浦義村もこれに加わりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久元年(1190)11月7日条 \ 源頼朝が大軍を引き連れて入京しました。先陣は畠山重忠、後陣は千葉常胤が務めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)11月4日条 \ 御所の庭で、“切的(きりまと)の会”(小さな的を矢で射抜く競技)が行われました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦元年(1211)9月22日条 \ 僧として仏の定めた戒律を受けるために、公暁が鶴岡八幡宮の別当・定暁に連れられて上洛しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)12月10日条 \ 源実朝の御台所(千世)が鎌倉に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)6月6日条 \ 北条時政が奥州征伐について祈るため、伊豆国北条に伽藍(がらん)の造営を計画し、その事始めとともに供養が行われました。その寺院は願成就院(がんじょうじゅいん)と名付けられ、本尊は阿弥陀三尊。不動・多聞などの仏像も安置されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)8月30日条 \ 平治の乱で命を落とした源頼朝の父・義朝と、従者の鎌田正清の首が鎌倉に到着。頼朝は、片瀬川辺りで文覚の門弟が首に掛けて奉っていた遺骨を受け取り、御所へと帰ったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)4月11日条 \ 源頼朝が父・源義朝の菩提を弔うために建立した勝長寿院(南御堂とも)の立柱の儀が行われましたが、この間に西国から飛脚が到着し、平家を討ち滅ぼしたことが報告されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久5年(1194)8月14日条 \ 源頼朝の甥(おい)にあたる一条高能が京から下向し、鎌倉に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)3月24日条 \ 北条泰時は、源実朝から讃岐守へ叙されることを聞くと、私には過分であるとこれを辞退しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)1月17日条 \ 源実朝が、讃岐の国守を推挙するので速やかに朝廷へ注進するようにと京都守護へ伝えました。北条泰時を讃岐守に任じられるように審議があったためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁2年(1202)8月2日条 \ 京から鎌倉に使者が到着し、先月7月22日に源頼家が従二位に叙され、征夷大将軍に補任されたと伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)7月26日条 \ 源頼家が安達景盛の妾(めかけ)である美女を御所に召し、今後は御所に住むように指示しました。これは、頼家が彼女を非常に寵愛(ちょうあい)していたためです。 #鎌倉殿の13人