#吾妻鏡 建保7年(1219)2月9日条 \ 京から使者が鎌倉に帰ってきました。去る2日に入京し、源実朝の死去を朝廷に申し上げたところ、洛中が驚き慌(あわ)て、武士が武装して行動を起こそうとしました。しかし、後鳥羽上皇から禁じられたため、鎮(しず)まったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久10年(1199)4月12日条 \ 13人の宿老以外が理由もなく、源頼家に訴訟の取り次ぎを行うことは禁止されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月14日条 \ 北条泰時率いる幕府軍の奮戦の前に、宇治川を守っていた官軍は敗北しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)1月12日条 \ 平家を攻めるため、周防国から赤間関(現在の山口県下関市)に到着した源範頼軍。しかし、兵糧が絶え、船もないため逗留(とうりゅう)は数日に及び、和田義盛ほどの男でさえもひそかに鎌倉へ帰参しようとしていたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月16日条 \ 万寿がシカを射止めると、源頼朝はその日の狩りをやめました。そしてその晩、矢口祝いを行い、黒・赤・白の三色の餅を山神に供えて狩猟の成功を祝いました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)8月27日条 \ 源頼家の病状が危険な状態となり、関西三十八カ国の地頭職を弟・千幡(のちの源実朝)に、関東二十八カ国の地頭、および、惣守護職を長男・一幡に譲与する配置が行われました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久3年(1192)7月26日条 \ 勅使が鎌倉に到着。源頼朝が征夷大将軍に任じられました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)11月10日条 \ 政子は、父・北条時政の後妻・牧の方(りく)から、夫・源頼朝が寵愛(ちょうあい)する亀のことを聞かされ、激怒したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)2月4日条 \ 平家はこのころ、摂津国と播磨国の境にある一ノ谷(現在の兵庫県神戸市須磨区)に城郭を構えていました。この日は、平清盛の三回忌を迎え、仏事を行っていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)8月13日条 \ 内藤知親が京から鎌倉へ戻り、藤原定家に送った和歌も添削が加えられて戻ってきました。また、源実朝の求めに応じて藤原定家が著した歌論書が献上されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)10月9日条 \ その後、源実朝は初めて鎧(よろい)を着て、また、馬に乗りました。この際、北条時政が実朝の補助を行いました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)8月29日条 \ 去る8月28日に小除目(こじもく)によって多くの源氏が朝恩を賜り、源義経が伊予守の官職を得ました。これは、去る4月に朝廷に行っていた申請が受け入れられた結果のようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)4月29日条 \ 政子が熊野山参詣(さんけい)を終えて鎌倉へ戻りました。在京の間に思いがけないことがあり、去る14日、政子が従三位に叙するとの宣下があったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)9月4日条 \ 源頼朝は、和田義盛を上総広常のところへ、安達盛長を千葉常胤に遣わし、両者に参上するように命じました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)2月7日条 \ 源義経は特に勇敢な武士70余騎を選んで引き連れ、寅の剋(とらのこく/午前3時~5時)に一ノ谷の後ろの山=鵯越(ひよどりごえ)に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月26日条 \ 大庭景親の首が討たれ、片瀬川あたりにさらされました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)11月20日条 \ 京から帰った北条政範の召し使いが、去る4日に平賀朝雅の酒宴があり、その際に朝雅と畠山重保との口論があったと伝えました。同席者がなだめたため、その日は何事もなく散会したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 \ 残念ながら、建久7年(1196)~建久10年(1199)1月までの記事は欠落しています。 そこで、第25回は特別編として、『鎌倉大日記』と後年の『吾妻鏡』よりエピソードをご紹介します。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月21日条 \ 牧の方(りく)が平賀朝雅の讒言(ざんげん)を受けて立腹。畠山重忠・重保父子を誅殺しようと、内々に謀議が行われました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)11月20日条 \ 諸国の守護人の怠慢について、国衙(こくが)の役人から訴えがありました。このため幕府で議論が行われ、守護を終身の職とせず、交代制にして、任期を決めて職務にあたらせる案などが検討されました。しかし、決定には至りませんでした。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)11月6日条 \ 伊豆の源頼家から「退屈なので近習をよこしてほしい」「安達景盛を私に引き渡し、処分させてほしい」といった内容の書状が届きました。審議の結果、要求はいずれも妥当ではないと判断されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月11日条 \ 源頼朝の妻・政子が鎌倉に入りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 \ 残念ながら、建久7年(1196)~建久10年(1199)1月までの記事は欠落しています。 そこで、第26回は特別編として、『百練抄』と『猪隈関白記』よりエピソードをご紹介します。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承5年(1181)1月11日条 \ 梶原景時が初めて源頼朝の御前に参上しました。頼朝は景時のことを非常に気に入ったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)5月12日条 \ 源実朝は、和田義盛の上総介への推挙について政子に相談しました。しかし、「頼朝様の代に、侍の受領(ずりょう)は停止すると決められました。新しい例を作るのであれば、私が口を挟むことではない」と政子が答え、推挙できなかったようです。 #鎌倉殿の13人