#吾妻鏡 建久4年(1193)5月16日条 \ 富士野での巻狩りの間に、源頼朝の嫡男・万寿(のちの源頼家)が初めてシカを射止めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁4年(1204)1月12日条 \ 源実朝の読書始(どくしょはじめ)が行われました。講義を行ったのは源仲章。才知の誉(ほま)れはないが、好んで書籍を集めており、百家九流(多方面の学問)に通じていると評されています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治3年(1187)10月29日条 \ この日、藤原秀衡が陸奥国平泉の館で亡くなりました。死期が迫った秀衡は、義経を大将軍として国務に当たるように、息子・泰衡らに遺言したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)5月24日条 \ 源頼朝から鎌倉に入ることを許されず、腰越駅(現在の神奈川県鎌倉市腰越付近)でいたずらに日を送っていた義経は、大江広元を通じて頼朝に1通の詫び状を送りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)11月13日条 \ 去る5日に北条政範が京で死去したことを伝える飛脚が鎌倉に到着しました。最愛の息子の死を知らされた父・北条時政と母・牧の方(りく)の悲嘆は、比べようもないほどであったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久6年(1195)3月29日条 \ 源頼朝の招きに応じて六波羅の御亭を訪れた丹後局が、政子、大姫と対面しました。頼朝は丹後局に砂金200両をはじめとした贈り物をしたようです。 #鎌倉殿の13人
#鎌倉殿の13人 特集/ 公式HPでは 出演者のインタビュー 音声コメント #かまコメ など さまざまなコンテンツを公開中! 『#吾妻鏡』から ドラマで描かれた 主なエピソードもご紹介しています。 ぜひ、総集編と一緒に お楽しみください!! ▼特集一覧 nhk.or.jp/kamakura13/spe…
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月14日条 \ 宇治川を挟んで官軍と対峙(たいじ)した北条泰時は、川を渡らなければ勝利できないと考え、浅瀬を調べるように指示。勇士を送り出すと泰時は、敵の矢が降り注ぐ中、民家を取り壊して作った筏(いかだ)に乗って川を渡りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)5月25日条 \ 阿野全成が常陸国に配流となりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月5日条 \ 比企一党の滅亡を知った源頼家が、北条時政を誅殺するようにと、和田義盛と仁田忠常にひそかに命じました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)9月6日条 \ 河田次郎が主人である藤原泰衡の首を持って源頼朝の陣に参上しました。河田次郎は頼朝から譜代の恩を忘れて主人を討ったことを糾弾され、斬罪に処されました。 #鎌倉殿の13人
貞永元年(1232)8月10日、#北条泰時 による #御成敗式目 の編纂が完了し、訴訟はこの法に基づいて行なうよう定められました(#吾妻鏡)。 若い頃に宿老たちが土地問題などでモメているのを見てのことでしょうか…。#鎌倉殿の13人 ではまだ頼りない泰時ですが、これからの活躍が楽しみですね!#坂口健太郎
#吾妻鏡 治承4年(1180)6月19日条 \ 三善康信の使者が北条へ到着。「以仁王の令旨を受けた源氏はすべて追討せよという命令が出されています。早く奥州へお逃げください」と源頼朝に都の情勢と自身の考えを伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)10月27日条 \ 梶原景時によって誅殺(ちゅうさつ)の危機にある結城朝光を救うためには、特別な計略がなければ難しいと答えた三浦義村が、景時に不満を持つ御家人たちによって連署の訴状を作り、鎌倉殿に訴えることを提案しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)9月2日条 \ 夫・源頼朝の安否を心配し、涙にくれていた政子。9月2日の申の刻(さるのこく/午後3時~5時)に使者が到着し、頼朝が船に乗るまでの状況の報告を受けました。この時、政子は悲しみと喜びが入り混じっていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月19日条 \ 後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を五畿七道に下しました。関東分の宣旨はきょう鎌倉に到着し、押松丸という藤原秀康の従者が所持していたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月23日条 \ 稲毛重成が誅殺されました。このたびの合戦は、親族の縁を翻(ひるがえ)した“重成の謀略”が発端でした。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)5月15日条 \ 義経の連絡を受けた源頼朝は、北条時政を使いとして酒匂駅に派遣。時政に平宗盛・清宗父子の身柄を受け取らせ、義経にはしばらく酒匂に逗留し、指示があるまで待つように伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)6月27日条 \ 都で大番役を務めていた三浦義澄が、相模の所領に戻る途中に北条を訪れました。ちなみに、しばらくの間、密談をしたようですが、その内容は不明です。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月22日条 \ 謀反人を誅殺するため、寅の剋(とらのこく/午前3時~5時)に軍兵が由比ヶ浜辺りに向かいました。畠山重保も郎党3人を従えてこれに加わっていましたが、三浦義村らに取り囲まれ、奮戦の末に主従ともに命を落としました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)11月10日条 \ 政子が牧宗親に命じ、源頼朝の愛妾(あいしょう)・亀の暮らしていた屋敷を破壊しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月21日条 \ 政子が三善康信を招いて相談すると、康信は「関東の安否は今、最も重要な局面を迎えました。日数が経過してしまったのは怠慢であると言えます。大将軍一人でも、まず出発されるべきでしょう」と語りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久元年(1219)7月19日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に政所始(まんどころはじめ)が行われました。三寅が幼いうちは、政子が裁断することになったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月22日条 \ 畠山重忠が鎌倉に参上するというウワサがあったため、道中で誅殺するようにという沙汰(さた)が下されました。討伐軍の大将軍を任されたのは、義時でした。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)6月7日条 \ 源頼朝が鎌倉に連れて来られた平宗盛を、御簾(みす)の中から眺めました。頼朝は比企能員を通して、「勅命を承り、追討使を派遣した結果、この田舎にお招きすることになりました。武芸に関わる者の名誉としたい」と伝えたようです。 #鎌倉殿の13人