#吾妻鏡 元久2年(1205)閏7月26日条 \ 襲いかかる在京御家人を相手にしばらく戦った平賀朝雅ですが、力及ばず、誅殺されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月21日条 \ 大江広元が「上洛と決めてから日がたち、異論が出ていました。日時を重ねていては心変わりをしてしまいます。今夜中に北条泰時一人であっても出立すれば、東国武士は雲が龍になびくように従うでしょう」と進言し、北条義時が特に感心しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)4月21日条 \ 源頼朝が自身を誅殺するつもりだと知った源義高は、計略をめぐらし、この日の暁に鎌倉を脱出しました。その時、義高は女房の姿になりすましていたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)6月16日条 \ 一条忠頼の誅殺は、工藤祐経が討手と決められていました。しかし、重大事を前に祐経の顔色が変わり、ほかの御家人の手により忠頼は誅殺されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保5年(1217)4月17日条 \ 唐船を海に浮かべる作業を見守っていた源実朝ですが、頓挫したため御所に帰りました。船はそののち、むなしく砂浜で朽ちたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月4日条 \ 畠山重忠が源頼朝のもとへ参上しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)9月17日条 \ 千葉常胤が一族を引き連れて源頼朝のもとへ合流。頼朝は常胤を座右に招き、「これからは父のように遇したい」と語りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月2日条 \ 北条時政の使者が比企能員のもとを訪れ、「さまざまな事柄を話し合いたい」という時政の意向を伝えました。これに対し能員は、「武装した郎党を引き連れて向かうべき」という息子らの忠告を制し、丸腰で時政のもとへ向かいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月24日条 \ 源頼朝の敗戦を知り、居城へ引き返す三浦党。しかしその途中、由井浦(現在の由比ヶ浜)で畠山重忠と遭遇し、戦いとなりました。郎党50余りを討ち取られた重忠が退いたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月22日条 \ 万寿がシカを射止めたと報告を受けた政子ですが、特に感心することはなく、「万寿は武将の嫡子なので、シカを獲たところで大したことはない」と答えたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)7月10日条 \ 山内首藤経俊に合流を呼びかけるため、使者として向かった安達盛長ですが、「呼びかけに応じないばかりか、さんざん悪口を言われた」と報告しています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久3年(1192)8月9日条 \ 巳の剋(みのこく/午前9時~午前11時)に政子が男児(のちの源実朝)を出産。乳母には、政子の妹・実衣が選ばれました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)10月28日条 \ 千葉常胤、三浦義澄、畠山重忠、比企能員らが賛同した梶原景時を糾弾する訴状を、和田義盛と三浦義村が持参し、大江広元に渡しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)11月5日条 \ 子の剋(ねのこく/午後11時~翌午前1時)に北条政範が亡くなりました。享年16。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ 源実朝を殺害した公暁は、「別当の阿闍梨公暁が、父(源頼家)の敵を討った」と名乗りを上げたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)11月6日条 \ 三浦義村が使者として送られ、書状に対する審議の結果が源頼家へ伝えられました。頼家には、今後は書状を送ることも控えるようにと忠告したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦元年(1211)9月15日条 \ 源頼家の息子・善哉が、鶴岡八幡宮の別当・定暁のもとで出家しました。法名は公暁です。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁元年(1201)9月22日条 \ たびたび蹴鞠を行う源頼家に疑問を抱き、頼時が共に頼家の近習を務める中野能成に「8月に台風によって鶴岡八幡宮の門が倒壊し、国は飢饉に愁(うれ)えています。このような時に、いまのなされようはどうなのか」と相談しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)6月9日条 \ 酒匂付近に逗留していた源義経ですが、鎌倉に入ることはかなわず、この日、平宗盛らを連れて帰洛(きらく)しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)7月8日条 \ 左大将家の直衣始(のうしはじめ)が、鶴岡八幡宮で執り行われました。左大将となった源実朝が、初めて直衣をまとって参拝する儀式です。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)4月21日条 \ 海野幸氏は源義高と同年で、日夜、義高の座右に仕えて片時も離れることがなかったようです。義高の窮地に際して、幸氏は身代わりとなって寝台に入り、義高を逃がしました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)7月8日条 \ 左大将家の直衣始(のうしはじめ)に際し、随兵に選ばれた三浦義村と長江明義とが互いに並び位置を譲り合い、出発が遅れていました。事情を知った源実朝は、高齢の明義に「左に侯じて子孫の名誉とせよ」と命じ、この場をおさめました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)5月5日条 \ 源頼朝は弟・範頼に飛脚を飛ばし、壇ノ浦に沈んだ宝剣を探し出すこと、冬まで九州にとどまり現地の安寧に尽くすことなどを命じました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月6日条 \ 源頼朝は占いを行わせ、山木兼隆攻めの日時を「17日寅卯の剋(とらうのこく/午前3時~7時)」に決めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月15日条 \ 寅の剋(とらのこく/午前3時~5時)に藤原秀康、三浦胤義らが官軍の敗北を報告。すると後鳥羽上皇は北条泰時のもとに院宣を届け、「この合戦は私の意志ではなく、謀臣らが起こしたものである。泰時らの申請通りに宣下しよう」と伝えました。 #鎌倉殿の13人