#吾妻鏡 治承4年(1180)10月6日条 \ 源頼朝が率いる一党が相模国へ到着。畠山重忠が先陣を務めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月20日条 \ 夜半ごろに武田信義が計略を企て、平維盛の陣の背後を襲おうとしました。しかし、富士沼に集まっていた水鳥の一群が一斉に飛び立ったため、羽音に驚いた平家軍は慌て驚き、兵を引きました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月7日条 \ 和田義盛との合戦で勲功のあった御家人たちへ、恩賞が与えられました。 ・北条義時 … 相模国山内庄 ・北条泰時 … 陸奥国遠田郡 ・北条時房 … 上総国飯富庄 ・三浦義村 … 陸奥国名取郡 ・三浦胤義 … 上総国伊北郡 ほか #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)7月19日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に伊豆からの飛脚が鎌倉へ到着。「昨日18日に源頼家が修善寺で亡くなられた」と報告したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)1月6日条 \ この日、源範頼が昨年11月14日に出発させていた飛脚が、ようやく鎌倉に到着。「兵糧が欠乏しているため武士たちの心が一つにまとまらず、本国を恋しく思い、多くの者が逃げ帰りたいと思っている」と、厳しい状況を伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)2月7日条 \ 源義経が勇士を率いて、シカやイノシシなどしか通ることができないほどに険しい鵯越(ひよどりごえ)から攻撃。これに平家は慌てふためき、敗走しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月17日条 \ 佐々木定綱・経高・盛綱・高綱の兄弟4人が未の剋(ひつじのこく/午後1時~3時)に北条に到着。源頼朝は感動の涙を浮かべながら「お前たちが遅れたから、けさ合戦することができなかった」と声をかけました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月29日条 \ 8月28日に土肥の真名鶴崎(現在の真鶴岬)から船に乗った源頼朝は、翌29日に安房国猟島(現在の千葉県鋸南町竜島)に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)5月20日条 \ 源頼家から命じられた比企時員が、阿野全成の妻である阿波局(実衣)を尋問するので身柄を引き渡すよう、政子に要求しました。これに対し政子は、「阿波局(実衣)に疑わしいところはない」とはねのけました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)5月26日条 \ 源頼政が平家軍2万と宇治で戦い、敗死。以仁王も最期を遂げました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月21日条 \ 大江広元と三善康信の進言を聞いた北条義時は、「両者の意見が一致したのは神仏の御加護である」と語り、泰時に早く出発するように指示しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)8月2日条 \ 大江広元を介して弟・範頼の起請文を確認した源頼朝は、「名に源の字を載せている。これは一族であるという主張であり、忠義から外れた過分な考えであるため、この起請文は偽りだ」と断じたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)11月10日条 \ 梶原景時を訴える連署の書状を受け取った大江広元は、頼朝に忠節を尽くした景時が罪に問われるのは不憫(ふびん)であり、和平への道を探るべきだと考え、源頼家に訴状を渡すのをためらっていました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)1月20日条 \ 三浦義村ら御家人たちの追撃により、梶原景時・景季親子らが討ち取られました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ 三浦義村が勇敢な者を討手に指名して公暁を討ち取ると、その首を北条義時のもとへ持参しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)4月26日条 \ 藤内光澄が鎌倉に帰参し、入間河原(現在の埼玉県狭山市入間川付近)において、源義高を誅殺したことを報告しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)7月8日条 \ 畠山重忠にくみしたものたちの所領が、勲功のあった者に与えられました。恩賞の沙汰を行ったのは政子。源実朝がまだ幼いため、このような差配となったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月17日条 \ 祭りでにぎわう牛鍬大路(うしくわおおじ)を避け、蛭嶋(ひるがしま)通りを進むことを進言する北条時政。これに対し、源頼朝は「大事を始めるのに裏道を使うことはできない」と却下し、合戦ではまず火を放つように命じました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)閏7月19日条 \ 牧の方(りく)が悪だくみを考え、平賀朝雅を鎌倉殿にして現在の将軍家(源実朝)を滅ぼそうとしているとのウワサが鎌倉に流れました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久6年(1195)3月13日条 \ 東大寺の再建に多額の支援をした源頼朝。東大寺の大仏を鋳造した宋(現在の中国)の技匠・陳和卿に会うことを望みましたが、陳和卿は「多くの人命を絶ち、罪業の深い頼朝に会うことはできない」と固辞したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ 夜になって神拝の儀式が終わり、しばらくして退出したところを、鶴岡八幡宮別当の阿闍梨(あじゃり)公暁が石段の近くに隙を見て近づき、剣を取って源実朝を殺害しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保5年(1217)6月20日条 \ 源頼家の息子である公暁が、園城寺から鎌倉に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)11月14日条 \ 北条義時が、長年仕えてきた自身の郎党の中で、手柄のあるものを御家人に準じた扱いにしてほしいと望みました。しかし源実朝は、「それを許せば、子孫の代になって直参を企てるなど、のちに災いを招く」と厳しく答え、義時の要望を退けました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)3月24日条 \ 長門国赤間関の壇ノ浦の海上において、源平両軍が激突。午の剋(うまのこく/午前11時~午後1時)になって平家方の敗戦が濃厚となると、二位尼が宝剣とともに入水(じゅすい)しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)10月8日条 \ 源頼朝の息子・千幡が元服し、源実朝と名を改めました。 #鎌倉殿の13人