#吾妻鏡 寿永元年(1182)11月14日条 \ 愛妻・牧の方(りく)の兄である宗親を源頼朝が処罰したことを不満に思った北条時政は、鎌倉を去り、所領である伊豆へと帰っていきました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)11月10日条 \ 三浦義村が伊豆より帰参し、源頼家の閑居での様子を詳しく伝えました。これを聞いた政子は、たいそう悲しんだそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ 源実朝が鶴岡八幡宮の楼門に入った際に、供奉(ぐぶ)していた北条義時は急に気分が悪くなり、御剣(ぎょけん)役を源仲章に譲って退出しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月21日条 \ 畠山重忠・重保父子を誅殺しようとする父・北条時政に対し、義時と時房は「重忠は治承4年(1180)以来、忠節を尽くしてきた。数々の勲功をないがしろにし、軽率に誅殺すれば後悔することになるでしょう」と諌(いさ)めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月28日条 \ 鼓を打つかのような激しい雷雨の中、子の剋(ねのこく/午後11時~午前1時)に亡き伊東祐親の孫である曽我十郎・五郎兄弟が、富士野の仮宿の襲撃を実行。この襲撃により、工藤祐経が殺害されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月22日条 \ 去る19日、畠山重忠が武蔵国男衾郡(現在の埼玉県小川町、および、嵐山町の一部)の館を発(た)ち、鎌倉へと向かいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月2日条 \ 郎党2人、雑色5人というわずかな供を連れて北条時政の館を訪れた比企能員が、仁田忠常らによって誅殺されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承5年(1181)3月10日条 \ 源行家と義円が墨俣川に陣を張り、平清盛の五男・重衡率いる平家軍と対峙(たいじ)しました。しかし、平家軍の前に敗れ、義円は討ち取られました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月20日条 \ 近江国粟津(現在の滋賀県大津市粟津町)付近で、相模国の住人・石田次郎により木曽義仲が誅殺されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久3年(1192)9月25日条 \ 姫の前と称する幕府の官女(比奈)が、今夜初めて義時の邸宅に渡りました。比奈は源頼朝のお気に入りで、とても美しい女性だったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治2年(1186)閏7月29日条 \ 静御前が男子を出産しました。源頼朝によって男子であれば命を絶つと決められていたため、義経と静御前の息子は、幼くしてこの世を去ることになりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦2年(1212)5月7日条 \ 北条朝時が御台所(千世)に仕える女房との間で問題を起こし、源実朝からお怒りを受けました。父・義時から勘当された朝時は、駿河国富士郡へ下向しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久10年(1199)4月12日条 \ 幕府に寄せられるさまざまな訴訟については、北条時政、北条義時、大江広元、三善康信、中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政の13人が対応するようになったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)7月25日条 \ 源仲章の使者が京から鎌倉に到着。去る16日に在京御家人を動員し、阿野全成の息子・頼全を誅殺したことが伝えられました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)閏7月19日条 \ 丑の剋(うしのこく/午前1時~3時)に北条時政が出家しました。同時に出家した者は、数えきれないほどであったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)5月5日条 \ 昨日鎌倉へ戻った北条時房が御所へ参上し、「先月14日に初めて朝廷の鞠庭(まりにわ)に参りました。15日、16日以後も引き続き参ると、蹴鞠(しゅうきく)の道をよく心得ていると後鳥羽上皇が何度も感心しておられました」と源実朝に報告しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治3年(1187)2月10日条 \ 源義経はさまざまなところに隠れ住み、何度も追捕使(ついぶし)の追及を逃れてきましたが、とうとう藤原秀衡を頼って奥州へ向かいました。妻室や子供を伴い、みな山伏や稚児童(ちごわらわ)の姿に変えていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月2日条 \ 逃げ帰った従者から比企能員が討たれたことを告げられた比企一党は、館に立て籠もり、攻め寄せる義時らの軍勢を迎え撃ちました。死を恐れず奮戦した比企一党ですが、軍勢の勢いには対抗できず、館に火を放ち滅亡しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月4日条 \ 片瀬川の川辺に和田義盛ら謀反人の首がさらされました。その数は234だといわれています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)11月12日条 \ 源頼朝は亀の暮らしていた屋敷を破壊した牧宗親を呼び出して詰問。「政子を重んじるのは良いが、命令に従うとしても、なぜ内々に報告してこなかったのか」と逆ギレし、宗親の髻(もとどり)を切り落としてしまいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月19日条 \ 三浦義村は弟・三浦胤義から届いた書状を持って北条義時のもとへ赴(おもむ)くと、「反逆には加担せず、北条義時の味方として並びない忠誠を尽くす」と語りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月27日条 \ 鎌倉に飛脚がぞくぞく到着し、去る1月20日の合戦の結果、木曽義仲を誅殺したことが知らされました。中でも梶原景時の報告はすばらしく、討ち取った人々や捕虜の名簿が付けられていたため、頼朝が感心したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)4月27日条 \ 以仁王の令旨(りょうじ)が伊豆の北条館に到着。持ってきたのは源行家。源頼朝は正装の水干に着替え、謹んで令旨を開きました。 #鎌倉殿の13人
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#鎌倉殿の13人 その時、陰陽師は】 #木曽義仲 にも陰陽師は仕えていました。 #安倍泰親 の長子季弘は義仲(一説には平氏)の祈祷師を務めたため、頼朝の不興を買ってしまったのだとか。 そのため頼朝の強い要請で、季弘は当時任じられていた掃部頭を解任されたと #吾妻鏡 に記されています。
#吾妻鏡 建仁2年(1202)6月25日条 \ 平知康が北条時連に「時連の『連』の字は銭貨を貫くという意味だろうが、ふさわしくない。早く名前を改めたほうが良い」と助言し、時連は名を改めることを承諾しました。 #鎌倉殿の13人