#吾妻鏡 貞応3年(1224)6月12日条 \ 辰の剋(たつのこく/午前7時~9時)に北条義時が病気になりました。このところ体調を崩していましたが、特別なことはありませんでした。しかし、いまは危篤です。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)6月23日条 \ 源頼家の命により、八田知家が阿野全成を誅殺しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治2年(1186)4月8日条 \ 源頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参詣(さんけい)し、静御前の舞を観覧。工藤祐経が鼓を打ち、畠山重忠が銅拍子を担当しました。静御前の華麗な舞によって、八幡宮一帯が壮観なものとなったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁2年(1202)8月23日条 \ 頼時が三浦義村の娘(初)と結婚しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 \ 残念ながら、建久7年(1196)~建久10年(1199)1月までの記事は欠落しています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月22日条 \ 畠山重忠軍の奮戦により、時間が経過してもなかなか勝負がつきませんでした。しかし申の剋(さるのこく/午後3時~5時)も終わろうとするころ、愛甲季隆の放った矢が重忠を射抜き、重忠は戦死。事態は収まりました。 #鎌倉殿の13人
建久3年(1192)8月9日、頼朝と政子の次男・千幡、のちの #源実朝 が誕生しました(#吾妻鏡)。#鎌倉殿の13人 に実朝として登場するのはもう少し先ですが、#大河ドラマ館 のデジタルサイネージではもう会うことが出来ますよ😉実朝役・ #柿澤勇人 さんのサインも展示しています♪
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月17日条 \ 堤館に到着した源頼朝の郎党たち。味方が館の後ろに回り込むと、佐々木秀義の次男・経高が前庭へと進み、矢を放ちました。「是(これ)、源家(げんけ)の平氏を征する最前の一箭也(いっせんなり)」と記されています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月21日条 \ 午の剋(うまのこく/午前11時~午後1時)、関東に大きな地震が起きました。音を立てて建物が倒壊し、崖崩れや地割れも発生したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月6日条 \ 源頼家から北条時政の誅殺を命じられていた仁田忠常が亡くなりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保3年(1215)1月8日条 \ 伊豆国から鎌倉に飛脚が到着。今月6日の戌の剋(いぬのこく/午後7時~9時)に北条時政が亡くなりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月29日条 \ 取り調べののち、弟・曽我五郎が斬首されました。事情を問う源頼朝に対して五郎は、工藤祐経は亡き父・河津祐泰の敵(かたき)であり、幼少のころより復讐(ふくしゅう)の思いを片時も忘れたことがなく、敵討ちを果たしたと答えたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁元年(1201)10月6日条 \ 伊豆国北条に下向した頼時が、5日に到着。頼時は8月の台風被害などによる食糧不足と、借りた米の債務に苦しむ百姓たちを憂い、証文を焼き捨てました。また、食事と酒を提供し、一人当たり一斗の米を配布しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ 夜になって雪が降り、2尺(およそ60cm)余り積もりました。本日、源実朝が右大臣の拝賀のために、鶴岡八幡宮に参りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)6月27日条 \ 藤内光澄が梟首(きょうしゅ)されました。これは、去る4月に大姫が慕う源義高を討ち取った光澄に対し、政子が憤慨したためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦2年(1212)2月28日条 \ 相模川の橋の修理について評議があり、かつて橋が新造されたときの事情が話題になりました。去る建久9年(1198)、稲毛重成が橋を新造したとき、その供養に参列した頼朝が、帰路落馬したのです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月24日条 \ 源頼朝の跡を追い、峰や谷を探し回る大庭景親率いる平家方。そんな中、梶原景時が頼朝を見つけますが、思うところがあり、痕跡はないと偽ってその場を立ち去りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月24日条 \ 再起を図るため、箱根湯坂を経て甲斐へと向かう北条時政・義時父子。一方、宗時は早河(現在の神奈川県小田原市)あたりで伊東祐親の軍勢に囲まれ、討ち取られました。また、工藤茂光も亡くなりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月5日条 \ 源頼家が比企能員らが滅亡したことを知りました。その憂いと憤りは、こらえられないほどすさまじいものだったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)2月8日条 \ 北条義時が大倉薬師堂を参拝しました。先月27日に源実朝に供奉していた際、白い犬を見た後に気分が悪くなり御剣役を源仲章に譲って退出しましたが、公暁が御剣役を襲い仲章が首を斬られました。このとき戌(いぬ)神は堂の中にいなかったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 養和2年(1182)2月14日条 \ 政子が懐妊し、源頼朝の嫡男誕生の期待が膨らむ中、三浦義澄に預けられていた伊東祐親が自害しました。御所にいた義澄は走って館に戻りましたが、その時にはすでに死体は片付けられていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)8月12日条 \ 政子の出産にあたり、貴人の出産や病気の際に邪気をはらうために蟇目(ひきめ)を射る引目役は、上総広常が務めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)8月17日条 \ 源義経の使者が鎌倉に到着し、「去る6日に左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)に任じられ、検非違使(けびいし)の宣旨を賜りました。後白河法皇が朝恩と仰せられたので、固辞することができませんでした」と報告したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月3日条 \ 和田義盛がついに討ち取られました。息子・義直を討ち取られたと知り、嘆き悲しんで迷走していたところを討ち取られたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月5日条 \ 源頼家の病気が少し回復し、かろうじて命を長らえました。 #鎌倉殿の13人