#吾妻鏡 建保4年(1216)6月15日条 \ 源実朝が陳和卿を御所に召して対面しました。陳和卿は三度拝礼するとたいそう涙を流し、困惑する実朝に「前世において、あなたは宋朝の医王山の長老で、私はその門弟でした」と語りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月8日条 \ 和田義盛が御所に参上し、源実朝と対面しました。義盛が謀反人とされた息子・義直、義重の処分のことを愁(うれ)うと、義盛のこれまでの勲功に免じて、二人の罪が許されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)2月15日条 \ 申の剋(さるのこく/午後3時~5時)に駿河国から鎌倉に飛脚が到着し、「阿野時元が去る11日に多勢を率いて、奥深い山に城郭を構えました。これは宣旨を賜って東国を支配しようと企てたものです」と報告しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月20日条 \ 平維盛率いる平家の追討軍が、富士川の西岸に陣を張りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)閏2月12日条 \ 京から鎌倉に使者が到着し、「親王の下向について今月1日に審議があり、後鳥羽上皇が『(雅成親王と頼仁親王の)二人のうち一人を必ず下向させよう。ただし、今すぐにというわけにはいかない』と同4日に命じられた」と報告しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)10月18日条 \ 源義経の求めに応じ、後白河法皇が源頼朝追討の宣旨を出しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月19日条 \ 世情が落ち着くまでの間、身の安全を図るため、政子らが伊豆山権現の文陽房覚淵のもとへ向かいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久6年(1195)3月4日条 \ 源頼朝が御台所の政子や子供である大姫、頼家らと共に入京しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月23日条 \ 平家方として源頼朝を追い詰めた大庭景親と山内首藤経俊が捕らわれの身となり、連行されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 \ 残念ながら、寿永2年(1183)の記事は欠落しています。 これまで紹介した「吾妻鏡」の内容は、番組HPの<特集>からご覧いただけます。 #鎌倉殿の13人 nhk.or.jp/kamakura13/spe… nhk.or.jp/kamakura13/spe…
#吾妻鏡 建仁3年(1203)10月19日条 \ 源実朝への代替わりに伴い、平賀朝雅、中原親能から京・畿内の御家人たちに対し、起請文を進上するように命が下されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久元年(1219)7月25日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に伊賀光季(いがみつすえ)の使者が京から鎌倉に到着し、「去る13日の未の剋(ひつじのこく/午後1時~3時)に、後鳥羽上皇の考えに背いた源頼茂を誅殺した」と報告しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月8日条 \ 富士野・藍沢での夏狩りを視察するため、源頼朝が駿河国に赴きました。 #鎌倉殿の13人
昨夜は #皆既月食 でしたね🌕#鎌倉 でも天体ショーが見られました! #吾妻鏡 にも複数「月蝕」の記載が。 元久元年(1204)9月15日、#源実朝 が義時邸に行き、帰ろうとしたが月蝕のため泊まることになりました。 同年7月に頼家が修善寺で亡くなっています。彼らはどんな想いで月を見上げたでしょうか…
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 朝比奈義秀が惣門を破って御所の南庭に乱入。立て籠もっていた御家人たちを攻め立てると、御所に火を放ちました。このため、御所内の建物は一宇残らず焼け落ちたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)5月28日条 \ 陸奥国葛岡郡の新熊野社(いまくまのしゃ)の僧が所領の境を巡り争っているため、惣地頭である畠山重忠が裁きを求めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)12月11日条 \ 平清盛が五男・重衡を園城寺に派遣し、寺の衆徒(しゅうと)と戦わせました。これは、以仁王の乱の際に園城寺の僧侶が以仁王にくみし、平家と敵対したからです。翌12日、園城寺は焼失しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)8月12日条 \ 政子が男児(のちの源頼家)を出産しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月9日条 \ 和田義盛が胤長の赦免を求めますが、胤長は首謀者のひとりであり、特に策謀をめぐらせていたため許されることはありませんでした。胤長は後ろ手に縛り上げられ、一族が列座する前で連れていかれました。 #鎌倉殿の13人
寿永元年(1182)8月12日、夕刻に政子が男子(のちの二代目鎌倉殿 #源頼家)を出産(#吾妻鏡)。同日行われた乳母の儀式では、河越重頼の妻で比企尼の娘がその役を務めました。 #鎌倉殿の13人 ではいよいよ比企と北条の戦いが勃発⚡病に倒れた頼家はどうなってしまうのか…目が離せません。
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月18日条 \ 源頼朝が駿河国の黄瀬河に到着。武田信義と合流し、対面しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月16日条 \ 平維盛率いる平家の追討軍を迎え討つため、源頼朝が駿河国に向けて出陣しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月20日条 \ 勢多・宇治の両道から迫る鎌倉軍に対し、義仲は側近の今井兼平をはじめとする武士たちを派遣して防戦。しかし、すべて敗北しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月19日条 \ 源頼朝は、山木兼隆の縁者である中原知親を土地の人々を悩ませていたと断じ、知親の所領を取り上げました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)2月16日条 \ 僧の白状により、和田義直、和田義重、和田胤長ら謀反を企てる者たちがあちこちで捕らえられました。首謀者は百三十余人、一味は二百人に及ぶようです。 #鎌倉殿の13人