#吾妻鏡 建保2年(1214)6月3日条 \ 諸国では日照りを愁(うれ)えていました。このため、源実朝は栄西に依頼して雨乞いのために自ら八つの戒律を守り、法華経を転読しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)11月6日条 \ この日、後白河法皇から源義経、源行家の両人を探し出して捕らえるようにという院宣が出されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月2日条 \ 謀反の首謀者である泉親平(親衡)が筋違橋あたりに隠れているとのウワサがあり、捕縛に向かいました。しかし取り逃し、とうとう親平の行方はわからなくなってしまいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月19日条 \ 去る15日の午の剋(うまのこく/午前11時~午後1時)に後鳥羽上皇が官軍を派遣し、伊賀光季を誅殺しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)8月22日条 \ 源頼朝が平泉に到着しました。藤原泰衡は姿をくらませ、館は煙と化していましたが、延焼を逃れた蔵には、数えきれないほどの財宝が収められていたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)10月27日条 \ 結城朝光の「忠臣は二君に仕えず」という発言に対し、梶原景時が頼家に対する背信と断じ、御家人たちを引き締めるためにも断罪すべきだと進言しました。このことを阿波局(実衣)が結城朝光に伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁元年(1201)9月22日条 \ 北条時連らが集まり、源頼家による蹴鞠(しゅうきく)会がまた行われました。ちなみにこの月は、11日、15日、20日にも蹴鞠が行われています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)9月15日条 \ 源頼朝の使者として、北条時政が甲斐国へ到着。頼朝から命じられた趣旨を武田信義に伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)11月17日条 \ 和田義盛が侍所別当に補任されました。これは、8月の石橋山の戦いのあと安房国へ向かった際に義盛がこの職を望み、許諾されていたためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)2月5日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)、源範頼と義経が摂津国に到着。7日の卯の剋(うのこく/午前5時~7時)をもって矢合わせの時と決定しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)3月9日条 \ 後鳥羽上皇の使者が政子の屋敷に参上し、源実朝の死について後鳥羽上皇が特に嘆き悲しんでいると伝えました。またその後、北条義時と面会し、摂津国長江庄と倉橋庄の地頭職を停止するように命じた後鳥羽上皇の院宣を届けました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)10月25日条 \ 結城朝光が御所内で、「忠臣は二君に仕えずという。私は頼朝様に特にご恩を賜っており、遺言により出家遁世(とんせい)しなかったことを非常に後悔している」と語りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)10月17日条 \ 土佐坊昌俊が60余騎の軍士を引き連れて、源義経の宿所を襲撃。義経はわずかな家人とともに自ら門戸を開いて戦い、昌俊を退けました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月3日条 \ 再び御所を攻めようとした和田義盛ですが、若宮大路は北条泰時、時房の防戦によって突破することができないなど、苦戦をしいられました。この日のお昼になっても激戦が続いていました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月3日条 \ 辰の剋(たつのこく/午前7時~9時)に西相模の御家人である曽我、中村、二宮、河村の一党が和田勢に加わり、陣を取りました。しかし、源実朝の花押が記された御教書(みぎょうしょ)が届けられると、皆が源実朝側に味方しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)2月16日条 \ 事件の発端は、信濃の泉親平(親衡)が一昨年より謀反を企て、和田胤長らに声をかけていたことでした。源頼家の遺児(のちの栄実)を将軍とし、北条義時を殺害しようとしたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)2月4日条 \ 政子が上洛し、これに北条時房が付き従いました。これは熊野山参詣(さんけい)のためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)10月9日条 \ 源実朝の政務開始の儀式である政所始(まんどころはじめ)が行われました。別当である北条時政、大江広元らが着座し、時政が実朝の御前に吉書(吉日良辰を選んで慶賀のしるしに発給する文書)を持参しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に和田義盛の一党がついに幕府の四面を包囲。旗をなびかせて矢を飛ばしました。これに対し、北条泰時、朝時らが防戦し、軍略を尽くしました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保5年(1217)4月17日条 \ 陳和卿の指示に従い、午の剋(うまのこく/午前11時~午後1時)から申の剋(さるのこく/午後3時~5時)の終わりまで力の限り船を引きましたが、海に船を浮かべることができませんでした。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保4年(1216)6月15日条 \ 陳和卿の話を聞いた源実朝は、去る建暦元年(1211)6月3日の丑の剋(うしのこく/午前1時~3時)に眠っていた際に、一人の高僧が夢の中に現れて同じ内容を告げたと答えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)11月24日条 \ 願成就院の造営を奉行するため、北条時政が伊豆国へ下向しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)5月15日条 \ 源義経の使者が鎌倉に到着。「平宗盛・清宗父子を連れて参上しました。去る7日に出京し、今夜は酒匂駅(現在の神奈川県小田原市酒匂付近)に着くところ。明日、鎌倉に入る予定です」と連絡がありました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月25日条 \ 荏柄(えがら)社前の和田胤長の屋敷地について、和田義盛が女房を通して「源頼朝様の代より、一族の所領が没収された際に他人に与えられたことはない。私に与えてください」と願い出ました。この件はすぐに聞き届けられ、義盛は喜んだそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)3月8日条 \ 源義経の飛脚が鎌倉に到着し、屋島の戦いでの勝利が報告されました。使者は合戦の結果を待たずに鎌倉へ向かおうとしましたが、播磨国で後ろを振り返った際に屋島の方角で黒煙が上がっているのを確認したため、勝利を確信したようです。 #鎌倉殿の13人