#吾妻鏡 治承4年(1180)12月28日条 \ 平清盛の五男・重衡が南都を焼き払い、東大寺、興福寺の堂塔をはじめ、仏像や経論が灰となりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承5年(1181)1月11日条 \ 梶原景時が初めて源頼朝の御前に参上しました。頼朝は景時のことを非常に気に入ったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承5年(1181)閏2月4日条 \ 平清盛が亡くなりました。自らの死に際し清盛は、葬儀や仏事をどのように行うのかだけではなく、子孫らはひたすら東国を帰服させる計略を立てて実行せよ、と遺言を残したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承5年(1181)3月10日条 \ 源行家と義円が墨俣川に陣を張り、平清盛の五男・重衡率いる平家軍と対峙(たいじ)しました。しかし、平家軍の前に敗れ、義円は討ち取られました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 養和2年(1182)2月14日条 \ 政子が懐妊し、源頼朝の嫡男誕生の期待が膨らむ中、三浦義澄に預けられていた伊東祐親が自害しました。御所にいた義澄は走って館に戻りましたが、その時にはすでに死体は片付けられていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)7月12日条 \ 源頼朝の妻・政子が産気づいたため、比企谷殿(ひきがやつどの/比企能員の館)に移りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)8月12日条 \ 政子が男児(のちの源頼家)を出産しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)8月12日条 \ 政子の出産にあたり、貴人の出産や病気の際に邪気をはらうために蟇目(ひきめ)を射る引目役は、上総広常が務めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)11月10日条 \ 政子は、父・北条時政の後妻・牧の方(りく)から、夫・源頼朝が寵愛(ちょうあい)する亀のことを聞かされ、激怒したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)11月10日条 \ 政子が牧宗親に命じ、源頼朝の愛妾(あいしょう)・亀の暮らしていた屋敷を破壊しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)11月12日条 \ 源頼朝は亀の暮らしていた屋敷を破壊した牧宗親を呼び出して詰問。「政子を重んじるのは良いが、命令に従うとしても、なぜ内々に報告してこなかったのか」と逆ギレし、宗親の髻(もとどり)を切り落としてしまいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)11月14日条 \ 愛妻・牧の方(りく)の兄である宗親を源頼朝が処罰したことを不満に思った北条時政は、鎌倉を去り、所領である伊豆へと帰っていきました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)11月14日条 \ 愛妻・りく(牧の方)の兄である宗親を源頼朝が処罰したことを不満に思った北条時政は、鎌倉を去り、所領である伊豆へと帰っていきました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 \ 残念ながら、寿永2年(1183)の記事は欠落しています。 これまで紹介した「吾妻鏡」の内容は、番組HPの<特集>からご覧いただけます。 #鎌倉殿の13人 nhk.or.jp/kamakura13/spe… nhk.or.jp/kamakura13/spe…
#吾妻鏡 \ 残念ながら、寿永2年(1183)の記事は欠落しています。 そこで、第14回は特別編として、『#玉葉』『#百錬抄』『#平家物語』よりエピソードをご紹介します。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月1日条 \ 昨年の冬、上総広常の事件があり、源頼朝の暮らす大倉御所がけがれてしまったと記されています。ちなみに『愚管抄(ぐかんしょう)』によると、12月22日、広常は梶原景時の不意打ちにより誅殺されたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月8日条 \ 上総広常は生前、上総国一宮<現在の玉前(たまさき)神社>に甲(よろい)一領を奉納していました。甲の前胴と後胴を結ぶ紐(ひも)には、1通の祈願書が結びつけられていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月17日条 \ 上総広常の祈願書には、3か年の間に ・神田20町を寄進する事 ・先例に沿って社殿を造営する事 ・一万回矢を射る流鏑馬(やぶさめ)を挙行する事 という願が立てられていました。 これは、源頼朝の祈願の成就と東国の泰平を願ってのものでした。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月17日条 \ 上総広常の祈願書のことを知った源頼朝は、広常を誅殺したことを後悔したようです。 #鎌倉殿の13人
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#鎌倉殿の13人 その時、陰陽師は】 #木曽義仲 にも陰陽師は仕えていました。 #安倍泰親 の長子季弘は義仲(一説には平氏)の祈祷師を務めたため、頼朝の不興を買ってしまったのだとか。 そのため頼朝の強い要請で、季弘は当時任じられていた掃部頭を解任されたと #吾妻鏡 に記されています。
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月20日条 \ 近江国粟津(現在の滋賀県大津市粟津町)付近で、相模国の住人・石田次郎により木曽義仲が誅殺されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月20日条 \ 源頼朝の御使(おつかい)として、範頼と義経が数万騎を率いて入京。範頼は勢多(現在の滋賀県大津市)から入京し、義経は宇治(現在の京都府宇治市)から入京し、義仲軍と対峙(たいじ)しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月20日条 \ 勢多・宇治の両道から迫る鎌倉軍に対し、義仲は側近の今井兼平をはじめとする武士たちを派遣して防戦。しかし、すべて敗北しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月27日条 \ 鎌倉に飛脚がぞくぞく到着し、去る1月20日の合戦の結果、木曽義仲を誅殺したことが知らされました。中でも梶原景時の報告はすばらしく、討ち取った人々や捕虜の名簿が付けられていたため、頼朝が感心したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)2月4日条 \ 平家はこのころ、摂津国と播磨国の境にある一ノ谷(現在の兵庫県神戸市須磨区)に城郭を構えていました。この日は、平清盛の三回忌を迎え、仏事を行っていたそうです。 #鎌倉殿の13人