#吾妻鏡 元歴2年(1185)6月9日条 \ 酒匂付近に逗留していた源義経ですが、鎌倉に入ることはかなわず、この日、平宗盛らを連れて帰洛(きらく)しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)8月29日条 \ 去る8月28日に小除目(こじもく)によって多くの源氏が朝恩を賜り、源義経が伊予守の官職を得ました。これは、去る4月に朝廷に行っていた申請が受け入れられた結果のようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)8月30日条 \ 平治の乱で命を落とした源頼朝の父・義朝と、従者の鎌田正清の首が鎌倉に到着。頼朝は、片瀬川辺りで文覚の門弟が首に掛けて奉っていた遺骨を受け取り、御所へと帰ったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)10月17日条 \ 土佐坊昌俊が60余騎の軍士を引き連れて、源義経の宿所を襲撃。義経はわずかな家人とともに自ら門戸を開いて戦い、昌俊を退けました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)10月17日条 \ 土佐坊昌俊による源義経の宿所への襲撃を知った源行家は、義経のもとに駆けつけました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)10月18日条 \ 源義経の求めに応じ、後白河法皇が源頼朝追討の宣旨を出しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)10月29日条 \ 源義経、源行家を討伐するため、源頼朝が京へ向けて鎌倉を出発しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)11月3日条 \ 源義経、源行家が再起を図るため京を離れ、西海へと向かいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)11月6日条 \ この日、後白河法皇から源義経、源行家の両人を探し出して捕らえるようにという院宣が出されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)11月25日条 \ この日、北条時政が京へ入り、源義経、源行家の反逆について源頼朝が不満を感じていることを後白河法皇に細かく申し入れました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治2年(1186)3月1日条 \ 源頼朝の命により、義経の愛妾(あいしょう)・静御前が京から鎌倉に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治2年(1186)3月22日条 \ 静御前に対する尋問が行われました。源義経の居場所は知らないと言い張ったままだったそうです。また、義経の子を身ごもっており、出産後には京へ帰るように指示がありました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治2年(1186)4月8日条 \ 源頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参詣(さんけい)し、静御前の舞を観覧。工藤祐経が鼓を打ち、畠山重忠が銅拍子を担当しました。静御前の華麗な舞によって、八幡宮一帯が壮観なものとなったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治2年(1186)4月8日条 \ 静御前の舞を見た源頼朝は「義経を慕い、別れの曲を歌うとはけしからん」と不満を漏らしますが、これを聞いた政子は「長年の関係を忘れ、義経を慕わないのであれば淑女ではない」と弁明し、静御前を称賛したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治2年(1186)閏7月29日条 \ 静御前が男子を出産しました。源頼朝によって男子であれば命を絶つと決められていたため、義経と静御前の息子は、幼くしてこの世を去ることになりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治3年(1187)2月10日条 \ 源義経はさまざまなところに隠れ住み、何度も追捕使(ついぶし)の追及を逃れてきましたが、とうとう藤原秀衡を頼って奥州へ向かいました。妻室や子供を伴い、みな山伏や稚児童(ちごわらわ)の姿に変えていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治3年(1187)10月29日条 \ この日、藤原秀衡が陸奥国平泉の館で亡くなりました。死期が迫った秀衡は、義経を大将軍として国務に当たるように、息子・泰衡らに遺言したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治3年(1189)閏4月30日条 \ 陸奥国で藤原泰衡が源義経を襲撃しました。これは一つには勅諚、もう一つには源頼朝の命に従ったためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治3年(1189)閏4月30日条 \ 藤原泰衡の襲撃に対し、源義経の家人らが防戦しますが、すべて敗北。義経は(衣河館の)持仏堂に入ると、まず妻と娘を殺し、次いで自害したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)6月6日条 \ 北条時政が奥州征伐について祈るため、伊豆国北条に伽藍(がらん)の造営を計画し、その事始めとともに供養が行われました。その寺院は願成就院(がんじょうじゅいん)と名付けられ、本尊は阿弥陀三尊。不動・多聞などの仏像も安置されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)7月17日条 \ 源頼朝が奥州の藤原泰衡を討伐するため出陣しました。軍勢は三手に分けられ、頼朝率いる大手軍の先陣は畠山重忠が務めました。東海道軍の大将軍は千葉常胤と八田知家、北陸道軍の大将軍は比企能員と宇佐美実政が務めています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)8月22日条 \ 源頼朝が平泉に到着しました。藤原泰衡は姿をくらませ、館は煙と化していましたが、延焼を逃れた蔵には、数えきれないほどの財宝が収められていたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)9月6日条 \ 河田次郎が主人である藤原泰衡の首を持って源頼朝の陣に参上しました。河田次郎は頼朝から譜代の恩を忘れて主人を討ったことを糾弾され、斬罪に処されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)11月6日条 \ 朝廷から奥州征伐の褒美について打診された源頼朝は、自身への褒美は辞退し、軍功のあった御家人は追ってお知らせするという旨の返書を送りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)11月24日条 \ 願成就院の造営を奉行するため、北条時政が伊豆国へ下向しました。 #鎌倉殿の13人