#吾妻鏡 寿永3年(1184)2月5日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)、源範頼と義経が摂津国に到着。7日の卯の剋(うのこく/午前5時~7時)をもって矢合わせの時と決定しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)2月7日条 \ 源義経は特に勇敢な武士70余騎を選んで引き連れ、寅の剋(とらのこく/午前3時~5時)に一ノ谷の後ろの山=鵯越(ひよどりごえ)に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)2月7日条 \ 源義経が勇士を率いて、シカやイノシシなどしか通ることができないほどに険しい鵯越(ひよどりごえ)から攻撃。これに平家は慌てふためき、敗走しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)4月21日条 \ 源頼朝が自身を誅殺するつもりだと知った源義高は、計略をめぐらし、この日の暁に鎌倉を脱出しました。その時、義高は女房の姿になりすましていたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)4月21日条 \ 海野幸氏は源義高と同年で、日夜、義高の座右に仕えて片時も離れることがなかったようです。義高の窮地に際して、幸氏は身代わりとなって寝台に入り、義高を逃がしました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)4月26日条 \ 藤内光澄が鎌倉に帰参し、入間河原(現在の埼玉県狭山市入間川付近)において、源義高を誅殺したことを報告しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)6月16日条 \ 武田信義の嫡男・一条忠頼が野望を抱いているとのうわさを察した源頼朝が、忠頼を誅殺することを決断。夕方になって忠頼を召し出し、御所の中で誅殺しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)6月16日条 \ 一条忠頼の誅殺は、工藤祐経が討手と決められていました。しかし、重大事を前に祐経の顔色が変わり、ほかの御家人の手により忠頼は誅殺されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)6月27日条 \ 藤内光澄が梟首(きょうしゅ)されました。これは、去る4月に大姫が慕う源義高を討ち取った光澄に対し、政子が憤慨したためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)8月17日条 \ 源義経の使者が鎌倉に到着し、「去る6日に左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)に任じられ、検非違使(けびいし)の宣旨を賜りました。後白河法皇が朝恩と仰せられたので、固辞することができませんでした」と報告したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)1月6日条 \ この日、源範頼が昨年11月14日に出発させていた飛脚が、ようやく鎌倉に到着。「兵糧が欠乏しているため武士たちの心が一つにまとまらず、本国を恋しく思い、多くの者が逃げ帰りたいと思っている」と、厳しい状況を伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)1月12日条 \ 平家を攻めるため、周防国から赤間関(現在の山口県下関市)に到着した源範頼軍。しかし、兵糧が絶え、船もないため逗留(とうりゅう)は数日に及び、和田義盛ほどの男でさえもひそかに鎌倉へ帰参しようとしていたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)1月12日条 \ 豊後国の臼杵惟隆とその弟・緒方惟栄が源氏に対する思いを持っているという情報が入ったため、彼らを味方に付けて九州に渡り、平家に攻勢をかけるという評定がなされました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)2月1日条 \ 源範頼軍が豊後国に渡り、北条義時らが最初に上陸しました。そして、葦屋浦(現在の福岡県遠賀郡芦屋町の西浜町・白浜町・幸町一帯の港湾)にて、原田種直らと交戦しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)2月18日条 \ 昨日、源義経が渡辺から渡海しようとしたところ、暴風のため多くの船が破損。しかし義経は丑の剋(午前1時~3時)に五艘(そう)の船で出て、卯の剋(午前5時~7時)には阿波国椿浦(現在の徳島県阿南市)に着きました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)2月22日条 \ 源義経に背後から攻められた平宗盛らは海上に逃れ、屋島から撤退。この日、梶原景時をはじめとする坂東武者たちが、百四十余艘の船で屋島の磯に到着したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)3月8日条 \ 源義経の飛脚が鎌倉に到着し、屋島の戦いでの勝利が報告されました。使者は合戦の結果を待たずに鎌倉へ向かおうとしましたが、播磨国で後ろを振り返った際に屋島の方角で黒煙が上がっているのを確認したため、勝利を確信したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)3月24日条 \ 長門国赤間関の壇ノ浦の海上において、源平両軍が激突。午の剋(うまのこく/午前11時~午後1時)になって平家方の敗戦が濃厚となると、二位尼が宝剣とともに入水(じゅすい)しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)4月11日条 \ 源頼朝が父・源義朝の菩提を弔うために建立した勝長寿院(南御堂とも)の立柱の儀が行われましたが、この間に西国から飛脚が到着し、平家を討ち滅ぼしたことが報告されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)4月21日条 \ 梶原景時の飛脚が鎮西から鎌倉へ到着。書状には、平家との合戦の経過とともに、「鎌倉殿の御意向に背いているとたびたびいさめたが、義経は勝手な振る舞いを改めなかった」と、義経の不義に対する訴えが記されていました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)5月5日条 \ 源頼朝は弟・範頼に飛脚を飛ばし、壇ノ浦に沈んだ宝剣を探し出すこと、冬まで九州にとどまり現地の安寧に尽くすことなどを命じました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)5月15日条 \ 源義経の使者が鎌倉に到着。「平宗盛・清宗父子を連れて参上しました。去る7日に出京し、今夜は酒匂駅(現在の神奈川県小田原市酒匂付近)に着くところ。明日、鎌倉に入る予定です」と連絡がありました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)5月15日条 \ 義経の連絡を受けた源頼朝は、北条時政を使いとして酒匂駅に派遣。時政に平宗盛・清宗父子の身柄を受け取らせ、義経にはしばらく酒匂に逗留し、指示があるまで待つように伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)5月24日条 \ 源頼朝から鎌倉に入ることを許されず、腰越駅(現在の神奈川県鎌倉市腰越付近)でいたずらに日を送っていた義経は、大江広元を通じて頼朝に1通の詫び状を送りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)6月7日条 \ 源頼朝が鎌倉に連れて来られた平宗盛を、御簾(みす)の中から眺めました。頼朝は比企能員を通して、「勅命を承り、追討使を派遣した結果、この田舎にお招きすることになりました。武芸に関わる者の名誉としたい」と伝えたようです。 #鎌倉殿の13人