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午後8時すぎからは #皆既月食 。月が地球の影に入り、赤銅色の月が夜空に浮かびます。 #吾妻鏡#玉葉 など平安末期~鎌倉時代の書物や歌にも月食が登場します。 いにしえの人々に不吉と恐れられた赤い月など #天変 を記録していくのが天文博士の本分。晴明公も幾度となく観測されたことでしょう。
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#鎌倉殿の13人 その時、#陰陽師 は】 #安倍泰親 は九条兼実の日記 #玉葉 、藤原頼長の日記 #台記 に度々登場し、摂関家に重用されていたと考えられます。 特に博識で本人も易学に通じていた頼長は「占は7割当たれば神と称されるが、泰親は7~8割的中させ、他人には真似できない」と絶賛しています。
#玉葉 ぎょくよう \ 九条兼実の日記。長寛2年(1164)から建仁3年(1203)までの記事があり、平氏政権や内乱の様相、幕府の成立などが詳細に記されている。 #鎌倉殿の13人
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#鎌倉殿の13人 その時、陰陽師は】 朝廷では #九条兼実 が実権を握り、彼の後押しもあり #源頼朝#征夷大将軍 に就任。 若き#指御子 #安倍泰親 は兼実にも「とても書き残せない」ほど大事の占を持ち込んだり、「今は身を慎むべき」と忠告をしたりと頻繁に兼実を訪ねた様子が #玉葉 に残ります。
#玉葉 寿永2年閏10月29日条 \ さる27日、興福寺別当・信円という僧が用件のために後白河法皇の院御所に参上しました。しかし、後白河法皇は源行家との双六(すごろく)に熱中していたため相手にされず、翌日改めて参上したそうです。 #鎌倉殿の13人
#玉葉 寿永2年(1183)7月30日条 \ この日、院御所において会議があり、平家を都から追いやった功績について議論されました。その結果、功の第一は頼朝、第二は義仲、第三は行家となりました。 #鎌倉殿の13人
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#鎌倉殿の13人 その時、#陰陽師 は】 #指御子 ・#安倍泰親 を父に持ち、 #陰陽頭 へと上り詰めた #安倍泰忠 も、若いころから #九条兼実 の元へ通っていたことが #玉葉 に記されています。 「稽古の者なり」として実力を認めており、1188年に亡くなったことを悼んでいます。
#吾妻鏡 \ 残念ながら、寿永2年(1183)の記事は欠落しています。 そこで、第14回は特別編として、『#玉葉』『#百錬抄』『#平家物語』よりエピソードをご紹介します。 #鎌倉殿の13人