#吾妻鏡 建仁3年(1203)11月10日条 \ 三浦義村が伊豆より帰参し、源頼家の閑居での様子を詳しく伝えました。これを聞いた政子は、たいそう悲しんだそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月22日条 \ 畠山重忠軍の奮戦により、時間が経過してもなかなか勝負がつきませんでした。しかし申の剋(さるのこく/午後3時~5時)も終わろうとするころ、愛甲季隆の放った矢が重忠を射抜き、重忠は戦死。事態は収まりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁2年(1202)12月19日条 \ 源頼家のお供をしていた平知康が古井戸に落ちました。幸い命は助かったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治2年(1186)4月8日条 \ 源頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参詣(さんけい)し、静御前の舞を観覧。工藤祐経が鼓を打ち、畠山重忠が銅拍子を担当しました。静御前の華麗な舞によって、八幡宮一帯が壮観なものとなったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月3日条 \ 和田義盛がついに討ち取られました。息子・義直を討ち取られたと知り、嘆き悲しんで迷走していたところを討ち取られたそうです。 #鎌倉殿の13人
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午後8時すぎからは #皆既月食 。月が地球の影に入り、赤銅色の月が夜空に浮かびます。 #吾妻鏡#玉葉 など平安末期~鎌倉時代の書物や歌にも月食が登場します。 いにしえの人々に不吉と恐れられた赤い月など #天変 を記録していくのが天文博士の本分。晴明公も幾度となく観測されたことでしょう。
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ 夜になって雪が降り、2尺(およそ60cm)余り積もりました。本日、源実朝が右大臣の拝賀のために、鶴岡八幡宮に参りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月21日条 \ 兄・頼朝に会いたいと、源義経が頼朝の陣へやって来ました。頼朝と義経は互いの昔を語り合い、懐かしさに涙を流しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月21日条 \ 午の剋(うまのこく/午前11時~午後1時)、関東に大きな地震が起きました。音を立てて建物が倒壊し、崖崩れや地割れも発生したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ 源実朝が鶴岡八幡宮の楼門に入った際に、供奉(ぐぶ)していた北条義時は急に気分が悪くなり、御剣(ぎょけん)役を源仲章に譲って退出しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月5日条 \ 源頼家の病気が少し回復し、かろうじて命を長らえました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月1日条 \ 昨年の冬、上総広常の事件があり、源頼朝の暮らす大倉御所がけがれてしまったと記されています。ちなみに『愚管抄(ぐかんしょう)』によると、12月22日、広常は梶原景時の不意打ちにより誅殺されたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月22日条 \ 去る19日、畠山重忠が武蔵国男衾郡(現在の埼玉県小川町、および、嵐山町の一部)の館を発(た)ち、鎌倉へと向かいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月21日条 \ 畠山重忠・重保父子を誅殺しようとする父・北条時政に対し、義時と時房は「重忠は治承4年(1180)以来、忠節を尽くしてきた。数々の勲功をないがしろにし、軽率に誅殺すれば後悔することになるでしょう」と諌(いさ)めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久3年(1192)9月25日条 \ 姫の前と称する幕府の官女(比奈)が、今夜初めて義時の邸宅に渡りました。比奈は源頼朝のお気に入りで、とても美しい女性だったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月19日条 \ 三浦義村は弟・三浦胤義から届いた書状を持って北条義時のもとへ赴(おもむ)くと、「反逆には加担せず、北条義時の味方として並びない忠誠を尽くす」と語りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁元年(1201)10月6日条 \ 伊豆国北条に下向した頼時が、5日に到着。頼時は8月の台風被害などによる食糧不足と、借りた米の債務に苦しむ百姓たちを憂い、証文を焼き捨てました。また、食事と酒を提供し、一人当たり一斗の米を配布しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月21日条 \ 大江広元と三善康信の進言を聞いた北条義時は、「両者の意見が一致したのは神仏の御加護である」と語り、泰時に早く出発するように指示しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)7月8日条 \ 畠山重忠にくみしたものたちの所領が、勲功のあった者に与えられました。恩賞の沙汰を行ったのは政子。源実朝がまだ幼いため、このような差配となったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)2月8日条 \ 北条義時が大倉薬師堂を参拝しました。先月27日に源実朝に供奉していた際、白い犬を見た後に気分が悪くなり御剣役を源仲章に譲って退出しましたが、公暁が御剣役を襲い仲章が首を斬られました。このとき戌(いぬ)神は堂の中にいなかったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月22日条 \ 万寿がシカを射止めたと報告を受けた政子ですが、特に感心することはなく、「万寿は武将の嫡子なので、シカを獲たところで大したことはない」と答えたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月29日条 \ 取り調べののち、弟・曽我五郎が斬首されました。事情を問う源頼朝に対して五郎は、工藤祐経は亡き父・河津祐泰の敵(かたき)であり、幼少のころより復讐(ふくしゅう)の思いを片時も忘れたことがなく、敵討ちを果たしたと答えたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月24日条 \ 源頼朝の跡を追い、峰や谷を探し回る大庭景親率いる平家方。そんな中、梶原景時が頼朝を見つけますが、思うところがあり、痕跡はないと偽ってその場を立ち去りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治2年(1186)閏7月29日条 \ 静御前が男子を出産しました。源頼朝によって男子であれば命を絶つと決められていたため、義経と静御前の息子は、幼くしてこの世を去ることになりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)6月27日条 \ 藤内光澄が梟首(きょうしゅ)されました。これは、去る4月に大姫が慕う源義高を討ち取った光澄に対し、政子が憤慨したためです。 #鎌倉殿の13人