#吾妻鏡 文治3年(1187)2月10日条 \ 源義経はさまざまなところに隠れ住み、何度も追捕使(ついぶし)の追及を逃れてきましたが、とうとう藤原秀衡を頼って奥州へ向かいました。妻室や子供を伴い、みな山伏や稚児童(ちごわらわ)の姿に変えていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)閏7月19日条 \ 牧の方(りく)が悪だくみを考え、平賀朝雅を鎌倉殿にして現在の将軍家(源実朝)を滅ぼそうとしているとのウワサが鎌倉に流れました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)閏7月19日条 \ 丑の剋(うしのこく/午前1時~3時)に北条時政が出家しました。同時に出家した者は、数えきれないほどであったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)10月8日条 \ 源頼朝の息子・千幡が元服し、源実朝と名を改めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月2日条 \ 郎党2人、雑色5人というわずかな供を連れて北条時政の館を訪れた比企能員が、仁田忠常らによって誅殺されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月6日条 \ 源頼朝は土肥実平、岡崎義実らを一人ずつ人気のない部屋に呼び、「今まで口に出して言わなかったが、お前だけが頼りだ!」と丁寧に声をかけました。ちなみに、工藤茂光、佐々木盛綱も頼朝から声をかけられています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)閏7月26日条 \ 襲いかかる在京御家人を相手にしばらく戦った平賀朝雅ですが、力及ばず、誅殺されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)11月10日条 \ 梶原景時を訴える連署の書状を受け取った大江広元は、頼朝に忠節を尽くした景時が罪に問われるのは不憫(ふびん)であり、和平への道を探るべきだと考え、源頼家に訴状を渡すのをためらっていました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)11月4日条 \ 常陸に到着した源頼朝は、佐竹氏の考えを確かめるため、上総広常を佐竹義政のもとへ遣わしました。すると広常は、義政が誘いに乗り一人になったところで誅殺(ちゅうさつ)しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)11月14日条 \ 愛妻・牧の方(りく)の兄である宗親を源頼朝が処罰したことを不満に思った北条時政は、鎌倉を去り、所領である伊豆へと帰っていきました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)8月12日条 \ 政子の出産にあたり、貴人の出産や病気の際に邪気をはらうために蟇目(ひきめ)を射る引目役は、上総広常が務めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)5月20日条 \ 源頼家から命じられた比企時員が、阿野全成の妻である阿波局(実衣)を尋問するので身柄を引き渡すよう、政子に要求しました。これに対し政子は、「阿波局(実衣)に疑わしいところはない」とはねのけました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久元年(1219)7月19日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に政所始(まんどころはじめ)が行われました。三寅が幼いうちは、政子が裁断することになったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦2年(1212)2月28日条 \ 相模川の橋の修理について評議があり、かつて橋が新造されたときの事情が話題になりました。去る建久9年(1198)、稲毛重成が橋を新造したとき、その供養に参列した頼朝が、帰路落馬したのです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月17日条 \ 堤館に到着した源頼朝の郎党たち。味方が館の後ろに回り込むと、佐々木秀義の次男・経高が前庭へと進み、矢を放ちました。「是(これ)、源家(げんけ)の平氏を征する最前の一箭也(いっせんなり)」と記されています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦2年(1212)5月7日条 \ 北条朝時が御台所(千世)に仕える女房との間で問題を起こし、源実朝からお怒りを受けました。父・義時から勘当された朝時は、駿河国富士郡へ下向しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)7月25日条 \ 源仲章の使者が京から鎌倉に到着。去る16日に在京御家人を動員し、阿野全成の息子・頼全を誅殺したことが伝えられました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月4日条 \ 片瀬川の川辺に和田義盛ら謀反人の首がさらされました。その数は234だといわれています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)7月19日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に伊豆からの飛脚が鎌倉へ到着。「昨日18日に源頼家が修善寺で亡くなられた」と報告したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保5年(1217)6月20日条 \ 源頼家の息子である公暁が、園城寺から鎌倉に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)7月8日条 \ 左大将家の直衣始(のうしはじめ)が、鶴岡八幡宮で執り行われました。左大将となった源実朝が、初めて直衣をまとって参拝する儀式です。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保5年(1217)4月17日条 \ 唐船を海に浮かべる作業を見守っていた源実朝ですが、頓挫したため御所に帰りました。船はそののち、むなしく砂浜で朽ちたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)5月5日条 \ 昨日鎌倉へ戻った北条時房が御所へ参上し、「先月14日に初めて朝廷の鞠庭(まりにわ)に参りました。15日、16日以後も引き続き参ると、蹴鞠(しゅうきく)の道をよく心得ていると後鳥羽上皇が何度も感心しておられました」と源実朝に報告しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 養和2年(1182)2月14日条 \ 政子が懐妊し、源頼朝の嫡男誕生の期待が膨らむ中、三浦義澄に預けられていた伊東祐親が自害しました。御所にいた義澄は走って館に戻りましたが、その時にはすでに死体は片付けられていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久3年(1192)8月9日条 \ 巳の剋(みのこく/午前9時~午前11時)に政子が男児(のちの源実朝)を出産。乳母には、政子の妹・実衣が選ばれました。 #鎌倉殿の13人