#吾妻鏡 建仁2年(1202)6月25日条 \ 平知康が北条時連に「時連の『連』の字は銭貨を貫くという意味だろうが、ふさわしくない。早く名前を改めたほうが良い」と助言し、時連は名を改めることを承諾しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月2日条 \ 逃げ帰った従者から比企能員が討たれたことを告げられた比企一党は、館に立て籠もり、攻め寄せる義時らの軍勢を迎え撃ちました。死を恐れず奮戦した比企一党ですが、軍勢の勢いには対抗できず、館に火を放ち滅亡しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)5月25日条 \ 阿野全成が常陸国に配流となりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月21日条 \ 大江広元が「上洛と決めてから日がたち、異論が出ていました。日時を重ねていては心変わりをしてしまいます。今夜中に北条泰時一人であっても出立すれば、東国武士は雲が龍になびくように従うでしょう」と進言し、北条義時が特に感心しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月6日条 \ 源頼朝が率いる一党が相模国へ到着。畠山重忠が先陣を務めました。 #鎌倉殿の13人
建久3年(1192)8月9日、頼朝と政子の次男・千幡、のちの #源実朝 が誕生しました(#吾妻鏡)。#鎌倉殿の13人 に実朝として登場するのはもう少し先ですが、#大河ドラマ館 のデジタルサイネージではもう会うことが出来ますよ😉実朝役・ #柿澤勇人 さんのサインも展示しています♪
#吾妻鏡 承久3年(1221)7月13日条 \ 後鳥羽上皇が鳥羽の行宮(あんぐう)から隠岐国に遷(うつ)られました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月24日条 \ 再起を図るため、箱根湯坂を経て甲斐へと向かう北条時政・義時父子。一方、宗時は早河(現在の神奈川県小田原市)あたりで伊東祐親の軍勢に囲まれ、討ち取られました。また、工藤茂光も亡くなりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 \ 残念ながら、建久7年(1196)~建久10年(1199)1月までの記事は欠落しています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月15日条 \ 寅の剋(とらのこく/午前3時~5時)に藤原秀康、三浦胤義らが官軍の敗北を報告。すると後鳥羽上皇は北条泰時のもとに院宣を届け、「この合戦は私の意志ではなく、謀臣らが起こしたものである。泰時らの申請通りに宣下しよう」と伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月27日条 \ 鎌倉に飛脚がぞくぞく到着し、去る1月20日の合戦の結果、木曽義仲を誅殺したことが知らされました。中でも梶原景時の報告はすばらしく、討ち取った人々や捕虜の名簿が付けられていたため、頼朝が感心したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)11月5日条 \ 子の剋(ねのこく/午後11時~翌午前1時)に北条政範が亡くなりました。享年16。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)11月13日条 \ 去る5日に北条政範が京で死去したことを伝える飛脚が鎌倉に到着しました。最愛の息子の死を知らされた父・北条時政と母・牧の方(りく)の悲嘆は、比べようもないほどであったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ 三浦義村が勇敢な者を討手に指名して公暁を討ち取ると、その首を北条義時のもとへ持参しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ 源実朝を殺害した公暁は、「別当の阿闍梨公暁が、父(源頼家)の敵を討った」と名乗りを上げたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)1月6日条 \ この日、源範頼が昨年11月14日に出発させていた飛脚が、ようやく鎌倉に到着。「兵糧が欠乏しているため武士たちの心が一つにまとまらず、本国を恋しく思い、多くの者が逃げ帰りたいと思っている」と、厳しい状況を伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月22日条 \ 北条泰時が平盛綱ら十八騎の軍勢を従え、京へ出発しました。その後、北条時房、三浦義村らが出発しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久6年(1195)3月13日条 \ 東大寺の再建に多額の支援をした源頼朝。東大寺の大仏を鋳造した宋(現在の中国)の技匠・陳和卿に会うことを望みましたが、陳和卿は「多くの人命を絶ち、罪業の深い頼朝に会うことはできない」と固辞したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月28日条 \ 鼓を打つかのような激しい雷雨の中、子の剋(ねのこく/午後11時~午前1時)に亡き伊東祐親の孫である曽我十郎・五郎兄弟が、富士野の仮宿の襲撃を実行。この襲撃により、工藤祐経が殺害されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月16日条 \ 富士野での巻狩りの間に、源頼朝の嫡男・万寿(のちの源頼家)が初めてシカを射止めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)6月9日条 \ 酒匂付近に逗留していた源義経ですが、鎌倉に入ることはかなわず、この日、平宗盛らを連れて帰洛(きらく)しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月20日条 \ 近江国粟津(現在の滋賀県大津市粟津町)付近で、相模国の住人・石田次郎により木曽義仲が誅殺されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦元年(1211)9月15日条 \ 源頼家の息子・善哉が、鶴岡八幡宮の別当・定暁のもとで出家しました。法名は公暁です。 #鎌倉殿の13人
貞永元年(1232)8月10日、#北条泰時 による #御成敗式目 の編纂が完了し、訴訟はこの法に基づいて行なうよう定められました(#吾妻鏡)。 若い頃に宿老たちが土地問題などでモメているのを見てのことでしょうか…。#鎌倉殿の13人 ではまだ頼りない泰時ですが、これからの活躍が楽しみですね!#坂口健太郎
#吾妻鏡 建保7年(1219)2月23日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に駿河国から鎌倉に飛脚が到着し、「阿野時元が自害した」と報告しました。 #鎌倉殿の13人