#吾妻鏡 元久2年(1205)6月22日条 \ 謀反人を誅殺するため、寅の剋(とらのこく/午前3時~5時)に軍兵が由比ヶ浜辺りに向かいました。畠山重保も郎党3人を従えてこれに加わっていましたが、三浦義村らに取り囲まれ、奮戦の末に主従ともに命を落としました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月14日条 \ 宇治川を挟んで官軍と対峙(たいじ)した北条泰時は、川を渡らなければ勝利できないと考え、浅瀬を調べるように指示。勇士を送り出すと泰時は、敵の矢が降り注ぐ中、民家を取り壊して作った筏(いかだ)に乗って川を渡りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承5年(1181)3月10日条 \ 源行家と義円が墨俣川に陣を張り、平清盛の五男・重衡率いる平家軍と対峙(たいじ)しました。しかし、平家軍の前に敗れ、義円は討ち取られました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)8月17日条 \ 源義経の使者が鎌倉に到着し、「去る6日に左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)に任じられ、検非違使(けびいし)の宣旨を賜りました。後白河法皇が朝恩と仰せられたので、固辞することができませんでした」と報告したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月2日条 \ 北条時政の使者が比企能員のもとを訪れ、「さまざまな事柄を話し合いたい」という時政の意向を伝えました。これに対し能員は、「武装した郎党を引き連れて向かうべき」という息子らの忠告を制し、丸腰で時政のもとへ向かいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁4年(1204)1月12日条 \ 源実朝の読書始(どくしょはじめ)が行われました。講義を行ったのは源仲章。才知の誉(ほま)れはないが、好んで書籍を集めており、百家九流(多方面の学問)に通じていると評されています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久10年(1199)4月12日条 \ 幕府に寄せられるさまざまな訴訟については、北条時政、北条義時、大江広元、三善康信、中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政の13人が対応するようになったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)5月19日条 \ 阿野全成に謀反の疑いがあり、御所内に拘禁されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月22日条 \ 畠山重忠が鎌倉に参上するというウワサがあったため、道中で誅殺するようにという沙汰(さた)が下されました。討伐軍の大将軍を任されたのは、義時でした。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月14日条 \ 北条泰時率いる幕府軍の奮戦の前に、宇治川を守っていた官軍は敗北しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ 夜になって神拝の儀式が終わり、しばらくして退出したところを、鶴岡八幡宮別当の阿闍梨(あじゃり)公暁が石段の近くに隙を見て近づき、剣を取って源実朝を殺害しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)11月6日条 \ 三浦義村が使者として送られ、書状に対する審議の結果が源頼家へ伝えられました。頼家には、今後は書状を送ることも控えるようにと忠告したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月19日条 \ 後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を五畿七道に下しました。関東分の宣旨はきょう鎌倉に到着し、押松丸という藤原秀康の従者が所持していたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)4月21日条 \ 源頼朝が自身を誅殺するつもりだと知った源義高は、計略をめぐらし、この日の暁に鎌倉を脱出しました。その時、義高は女房の姿になりすましていたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)5月5日条 \ 源頼朝は弟・範頼に飛脚を飛ばし、壇ノ浦に沈んだ宝剣を探し出すこと、冬まで九州にとどまり現地の安寧に尽くすことなどを命じました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月5日条 \ 夜になって、幕府軍が大井戸の渡しを渡って官軍に戦いを挑み、これを討ち破りました。藤原秀康、三浦胤義らは警固していた場所を放棄し、京へ退却したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)8月2日条 \ 大江広元を介して弟・範頼の起請文を確認した源頼朝は、「名に源の字を載せている。これは一族であるという主張であり、忠義から外れた過分な考えであるため、この起請文は偽りだ」と断じたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月29日条 \ 8月28日に土肥の真名鶴崎(現在の真鶴岬)から船に乗った源頼朝は、翌29日に安房国猟島(現在の千葉県鋸南町竜島)に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治3年(1187)10月29日条 \ この日、藤原秀衡が陸奥国平泉の館で亡くなりました。死期が迫った秀衡は、義経を大将軍として国務に当たるように、息子・泰衡らに遺言したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)8月19日条 \ 訴えられた源頼家は、安達景盛の誅殺(ちゅうさつ)を命じました。しかし、政子が景盛をかばい、「景盛は信頼が厚く、頼朝が特に情けをかけていた。誅殺すれば必ず後悔するでしょう」と頼家を諭しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月23日条 \ 稲毛重成が誅殺されました。このたびの合戦は、親族の縁を翻(ひるがえ)した“重成の謀略”が発端でした。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月21日条 \ 政子が三善康信を招いて相談すると、康信は「関東の安否は今、最も重要な局面を迎えました。日数が経過してしまったのは怠慢であると言えます。大将軍一人でも、まず出発されるべきでしょう」と語りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月7日条 \ 和田義盛との合戦で勲功のあった御家人たちへ、恩賞が与えられました。 ・北条義時 … 相模国山内庄 ・北条泰時 … 陸奥国遠田郡 ・北条時房 … 上総国飯富庄 ・三浦義村 … 陸奥国名取郡 ・三浦胤義 … 上総国伊北郡 ほか #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月5日条 \ 比企一党の滅亡を知った源頼家が、北条時政を誅殺するようにと、和田義盛と仁田忠常にひそかに命じました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)6月7日条 \ 源頼朝が鎌倉に連れて来られた平宗盛を、御簾(みす)の中から眺めました。頼朝は比企能員を通して、「勅命を承り、追討使を派遣した結果、この田舎にお招きすることになりました。武芸に関わる者の名誉としたい」と伝えたようです。 #鎌倉殿の13人