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#鎌倉殿の13人 その時、陰陽師は】 #木曽義仲 にも陰陽師は仕えていました。 #安倍泰親 の長子季弘は義仲(一説には平氏)の祈祷師を務めたため、頼朝の不興を買ってしまったのだとか。 そのため頼朝の強い要請で、季弘は当時任じられていた掃部頭を解任されたと #吾妻鏡 に記されています。
#吾妻鏡 建保7年(1219)3月9日条 \ 後鳥羽上皇の使者が政子の屋敷に参上し、源実朝の死について後鳥羽上皇が特に嘆き悲しんでいると伝えました。またその後、北条義時と面会し、摂津国長江庄と倉橋庄の地頭職を停止するように命じた後鳥羽上皇の院宣を届けました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)4月11日条 \ 源頼朝が父・源義朝の菩提を弔うために建立した勝長寿院(南御堂とも)の立柱の儀が行われましたが、この間に西国から飛脚が到着し、平家を討ち滅ぼしたことが報告されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保5年(1217)6月20日条 \ 政子の命により、園城寺から鎌倉に到着した公暁が鶴岡八幡宮の別当に補任されるようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に和田義盛の一党がついに幕府の四面を包囲。旗をなびかせて矢を飛ばしました。これに対し、北条泰時、朝時らが防戦し、軍略を尽くしました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)11月6日条 \ この日、後白河法皇から源義経、源行家の両人を探し出して捕らえるようにという院宣が出されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)7月17日条 \ 源頼朝が奥州の藤原泰衡を討伐するため出陣しました。軍勢は三手に分けられ、頼朝率いる大手軍の先陣は畠山重忠が務めました。東海道軍の大将軍は千葉常胤と八田知家、北陸道軍の大将軍は比企能員と宇佐美実政が務めています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 和田義盛の館に軍兵が競って集まりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月9日条 \ 和田義盛がきょうも御所に参上。一族九十八人を引き連れて、御所の南庭に列座しました。これは甥(おい)の和田胤長が赦免されるように申請するためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)8月22日条 \ 源頼朝が平泉に到着しました。藤原泰衡は姿をくらませ、館は煙と化していましたが、延焼を逃れた蔵には、数えきれないほどの財宝が収められていたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 朝比奈義秀が惣門を破って御所の南庭に乱入。立て籠もっていた御家人たちを攻め立てると、御所に火を放ちました。このため、御所内の建物は一宇残らず焼け落ちたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)2月22日条 \ 源義経に背後から攻められた平宗盛らは海上に逃れ、屋島から撤退。この日、梶原景時をはじめとする坂東武者たちが、百四十余艘の船で屋島の磯に到着したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)11月6日条 \ 朝廷から奥州征伐の褒美について打診された源頼朝は、自身への褒美は辞退し、軍功のあった御家人は追ってお知らせするという旨の返書を送りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月20日条 \ 源頼朝の御使(おつかい)として、範頼と義経が数万騎を率いて入京。範頼は勢多(現在の滋賀県大津市)から入京し、義経は宇治(現在の京都府宇治市)から入京し、義仲軍と対峙(たいじ)しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 北条泰時らの奮戦の前に兵が少なくなり、矢も足りなくなったため、和田義盛の一党が由比ヶ浜まで退却しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保5年(1217)10月11日条 \ 公暁が鶴岡八幡宮の別当に補任されてから、初めて神拝が行われました。また宿願のため、きょうから千日の間、鶴岡八幡宮寺に参籠(さんろう)されるそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)8月12日条 \ 政子が男児(のちの源頼家)を出産しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久3年(1192)3月16日条 \ 京より鎌倉に飛脚が到着し、去る13日の寅の剋(とらのこく/午前3時~5時)に後白河法皇が六条殿で亡くなったと伝えられました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月20日条 \ 源頼朝の一党が相模に向けて出陣しました。ちなみに、以仁王の令旨(りょうじ)を御旗の横上に付けていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)5月28日条 \ 源頼家は新熊野社(いまくまのしゃ)の僧が進上してきた境の絵図を確認すると、自ら筆を取って絵図の中央に線を引きました。そして、「所領の広い狭いは運による。今後、所領問題についてはこのように裁断する」と申し付けました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)10月25日条 \ 結城朝光が御所内で、「忠臣は二君に仕えずという。私は頼朝様に特にご恩を賜っており、遺言により出家遁世(とんせい)しなかったことを非常に後悔している」と語りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 北条義時から報告を受けた政子と御台所(千世)が、御所を離れて鶴岡八幡宮に移りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁元年(1201)9月22日条 \ 北条時連らが集まり、源頼家による蹴鞠(しゅうきく)会がまた行われました。ちなみにこの月は、11日、15日、20日にも蹴鞠が行われています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)10月18日条 \ 源義経の求めに応じ、後白河法皇が源頼朝追討の宣旨を出しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)4月9日条 \ 4月1日に北条時政が遠江守に任じられ、従五位下に叙されました。これを伝える除書(除目の結果を伝える書類)が、9日に届きました。 #鎌倉殿の13人