#吾妻鏡 元歴2年(1185)2月1日条 \ 源範頼軍が豊後国に渡り、北条義時らが最初に上陸しました。そして、葦屋浦(現在の福岡県遠賀郡芦屋町の西浜町・白浜町・幸町一帯の港湾)にて、原田種直らと交戦しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)12月12日条 \ 源頼朝が大倉御所に入ると、御家人たちが侍所に参上。頼朝を鎌倉の主(あるじ)と認め、主従の契りを交わしました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)9月15日条 \ 源頼朝の使者として、北条時政が甲斐国へ到着。頼朝から命じられた趣旨を武田信義に伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)1月15日条 \ 政所で政子の熊野山参詣(さんけい)について審議がありました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)1月12日条 \ 豊後国の臼杵惟隆とその弟・緒方惟栄が源氏に対する思いを持っているという情報が入ったため、彼らを味方に付けて九州に渡り、平家に攻勢をかけるという評定がなされました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)10月17日条 \ 土佐坊昌俊が60余騎の軍士を引き連れて、源義経の宿所を襲撃。義経はわずかな家人とともに自ら門戸を開いて戦い、昌俊を退けました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)11月17日条 \ 和田義盛が侍所別当に補任されました。これは、8月の石橋山の戦いのあと安房国へ向かった際に義盛がこの職を望み、許諾されていたためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保4年(1216)6月15日条 \ 源実朝が陳和卿を御所に召して対面しました。陳和卿は三度拝礼するとたいそう涙を流し、困惑する実朝に「前世において、あなたは宋朝の医王山の長老で、私はその門弟でした」と語りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保5年(1217)4月17日条 \ 陳和卿の指示に従い、午の剋(うまのこく/午前11時~午後1時)から申の剋(さるのこく/午後3時~5時)の終わりまで力の限り船を引きましたが、海に船を浮かべることができませんでした。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)10月27日条 \ 結城朝光の「忠臣は二君に仕えず」という発言に対し、梶原景時が頼家に対する背信と断じ、御家人たちを引き締めるためにも断罪すべきだと進言しました。このことを阿波局(実衣)が結城朝光に伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月8日条 \ 和田義盛が御所に参上し、源実朝と対面しました。義盛が謀反人とされた息子・義直、義重の処分のことを愁(うれ)うと、義盛のこれまでの勲功に免じて、二人の罪が許されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久6年(1195)2月14日条 \ 源頼朝は、御台所の政子や子供である大姫、頼家と一緒に京へ向けて出発しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)3月8日条 \ 源義経の飛脚が鎌倉に到着し、屋島の戦いでの勝利が報告されました。使者は合戦の結果を待たずに鎌倉へ向かおうとしましたが、播磨国で後ろを振り返った際に屋島の方角で黒煙が上がっているのを確認したため、勝利を確信したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久元年(1190)10月3日条 \ 源頼朝が京へ向けて出発しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月2日条 \ 謀反の首謀者である泉親平(親衡)が筋違橋あたりに隠れているとのウワサがあり、捕縛に向かいました。しかし取り逃し、とうとう親平の行方はわからなくなってしまいました。 #鎌倉殿の13人
寿永元年(1182)8月12日、夕刻に政子が男子(のちの二代目鎌倉殿 #源頼家)を出産(#吾妻鏡)。同日行われた乳母の儀式では、河越重頼の妻で比企尼の娘がその役を務めました。 #鎌倉殿の13人 ではいよいよ比企と北条の戦いが勃発⚡病に倒れた頼家はどうなってしまうのか…目が離せません。
#吾妻鏡 寿永3年(1184)2月5日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)、源範頼と義経が摂津国に到着。7日の卯の剋(うのこく/午前5時~7時)をもって矢合わせの時と決定しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)8月30日条 \ 平治の乱で命を落とした源頼朝の父・義朝と、従者の鎌田正清の首が鎌倉に到着。頼朝は、片瀬川辺りで文覚の門弟が首に掛けて奉っていた遺骨を受け取り、御所へと帰ったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)10月29日条 \ 源義経、源行家を討伐するため、源頼朝が京へ向けて鎌倉を出発しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)3月1日条 \ 高野山大塔料所である備後国大田荘の年貢の未納について、寺家から訴えがありました。同地の地頭は、三善康信。審議が行われましたが、高野山の僧と康信の代官との間で口論となり、源実朝がしばらく裁決を待つように命じました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)5月28日条 \ 陸奥国葛岡郡の新熊野社(いまくまのしゃ)の僧が所領の境を巡り争っているため、惣地頭である畠山重忠が裁きを求めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)12月28日条 \ 平清盛の五男・重衡が南都を焼き払い、東大寺、興福寺の堂塔をはじめ、仏像や経論が灰となりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保4年(1216)6月8日条 \ 陳和卿が鎌倉に到着しました。陳和卿は東大寺の大仏を造立した宋の技術者で、東大寺の供養の際には対面を望む源頼朝の誘いを断りましたが、実朝に拝謁するため鎌倉を訪れました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 申の剋(さるのこく/午後3時~5時)に和田義盛が一味を率いて、御所を急襲しました。味方したのは、義盛の三男・義秀、四男・義直、五男・義重ら150名。義盛は軍勢を三手に分け、幕府の南門と、北条義時の屋敷、西北の門を囲みました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)7月12日条 \ 源頼朝の妻・政子が産気づいたため、比企谷殿(ひきがやつどの/比企能員の館)に移りました。 #鎌倉殿の13人