#吾妻鏡 文治元年(1185)11月3日条 \ 源義経、源行家が再起を図るため京を離れ、西海へと向かいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)3月16日条 \ 京から鎌倉へ戻った波多野朝定が、去る6日の除書を持参。源実朝が左大将を兼任することになりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)6月6日条 \ 北条時政が奥州征伐について祈るため、伊豆国北条に伽藍(がらん)の造営を計画し、その事始めとともに供養が行われました。その寺院は願成就院(がんじょうじゅいん)と名付けられ、本尊は阿弥陀三尊。不動・多聞などの仏像も安置されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)2月4日条 \ 政子が上洛し、これに北条時房が付き従いました。これは熊野山参詣(さんけい)のためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)5月12日条 \ 和田義盛は「上総介(上総国の国司)に推挙してほしい」と、源実朝へ内々に頼んでいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久元年(1190)11月9日条 \ 源頼朝が院御所と内裏に参上しました。後白河法皇に拝謁した頼朝は二人だけで長時間にわたり会談し、治世についても意見を交わしたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)7月5日条 \ 源実朝が夢のお告げにより、ニ十首の和歌を住吉社に奉納しました。使者となったのは、藤原定家の門弟・内藤知親。この機会に実朝は、建永元年(1206)に習い始めたばかりのころの和歌三十首を選び、添削を受けるために定家へ送りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)11月4日条 \ 御所の庭で、“切的(きりまと)の会”(小さな的を矢で射抜く競技)が行われました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)8月24日条 \ 岡崎義実が出家しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)10月9日条 \ 源実朝の政務開始の儀式である政所始(まんどころはじめ)が行われました。別当である北条時政、大江広元らが着座し、時政が実朝の御前に吉書(吉日良辰を選んで慶賀のしるしに発給する文書)を持参しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)7月26日条 \ 安芸国壬生庄(現在の広島県北広島町壬生)の地頭に関する裁定が、源実朝の御前で行われました。実朝が直(じか)に政道を裁断するのは、これが初めてです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久5年(1194)8月14日条 \ 源頼朝の甥(おい)にあたる一条高能が京から下向し、鎌倉に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)1月12日条 \ 平家を攻めるため、周防国から赤間関(現在の山口県下関市)に到着した源範頼軍。しかし、兵糧が絶え、船もないため逗留(とうりゅう)は数日に及び、和田義盛ほどの男でさえもひそかに鎌倉へ帰参しようとしていたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)2月18日条 \ 昨日、源義経が渡辺から渡海しようとしたところ、暴風のため多くの船が破損。しかし義経は丑の剋(午前1時~3時)に五艘(そう)の船で出て、卯の剋(午前5時~7時)には阿波国椿浦(現在の徳島県阿南市)に着きました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承5年(1181)閏2月4日条 \ 平清盛が亡くなりました。自らの死に際し清盛は、葬儀や仏事をどのように行うのかだけではなく、子孫らはひたすら東国を帰服させる計略を立てて実行せよ、と遺言を残したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁2年(1202)8月2日条 \ 京から鎌倉に使者が到着し、先月7月22日に源頼家が従二位に叙され、征夷大将軍に補任されたと伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久6年(1195)3月4日条 \ 源頼朝が御台所の政子や子供である大姫、頼家らと共に入京しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月19日条 \ 源頼朝に敗れ、捕らえられた伊東祐親。身内からの嘆願により誅殺(ちゅうさつ)は免れ、罪名が決まるまで三浦義澄に預けられることになりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)4月21日条 \ 梶原景時の飛脚が鎮西から鎌倉へ到着。書状には、平家との合戦の経過とともに、「鎌倉殿の御意向に背いているとたびたびいさめたが、義経は勝手な振る舞いを改めなかった」と、義経の不義に対する訴えが記されていました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)9月3日条 \ 源頼朝らが民家に宿泊していたところ、平家方の安房国の豪族・長狭常伴が襲撃を計画。三浦義澄らがこれを迎え討ちました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承5年(1181)1月11日条 \ 梶原景時が初めて源頼朝の御前に参上しました。頼朝は景時のことを非常に気に入ったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)4月11日条 \ このところ武蔵国に蟄居(ちっきょ)していた稲毛重成が、北条時政の招きに応じ、従者を率いて鎌倉に参上しました。鎌倉内は騒がしく、近国の御家人たちが群参して武具が整えられているというウワサがあったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月8日条 \ 富士野・藍沢での夏狩りを視察するため、源頼朝が駿河国に赴きました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)10月19日条 \ 源実朝への代替わりに伴い、平賀朝雅、中原親能から京・畿内の御家人たちに対し、起請文を進上するように命が下されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦元年(1211)9月22日条 \ 僧として仏の定めた戒律を受けるために、公暁が鶴岡八幡宮の別当・定暁に連れられて上洛しました。 #鎌倉殿の13人