#吾妻鏡 建保4年(1216)6月15日条 \ 陳和卿の話を聞いた源実朝は、去る建暦元年(1211)6月3日の丑の剋(うしのこく/午前1時~3時)に眠っていた際に、一人の高僧が夢の中に現れて同じ内容を告げたと答えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月23日条 \ 平家方として源頼朝を追い詰めた大庭景親と山内首藤経俊が捕らわれの身となり、連行されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月20日条 \ 平維盛率いる平家の追討軍が、富士川の西岸に陣を張りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保5年(1217)4月17日条 \ 陳和卿が唐船を造り終えました。そこでこの日、数百人の人夫を御所家人から差し出させ、唐船を由比浦に浮かべることになりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月16日条 \ 平維盛率いる平家の追討軍を迎え討つため、源頼朝が駿河国に向けて出陣しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月19日条 \ 世情が落ち着くまでの間、身の安全を図るため、政子らが伊豆山権現の文陽房覚淵のもとへ向かいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月18日条 \ 源頼朝が駿河国の黄瀬河に到着。武田信義と合流し、対面しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月27日条 \ 平家に通じている常陸の佐竹氏を追討するため、頼朝が出陣しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)2月16日条 \ 事件の発端は、信濃の泉親平(親衡)が一昨年より謀反を企て、和田胤長らに声をかけていたことでした。源頼家の遺児(のちの栄実)を将軍とし、北条義時を殺害しようとしたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)1月20日条 \ 勢多・宇治の両道から迫る鎌倉軍に対し、義仲は側近の今井兼平をはじめとする武士たちを派遣して防戦。しかし、すべて敗北しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月9日条 \ 和田義盛が胤長の赦免を求めますが、胤長は首謀者のひとりであり、特に策謀をめぐらせていたため許されることはありませんでした。胤長は後ろ手に縛り上げられ、一族が列座する前で連れていかれました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月19日条 \ 源頼朝は、山木兼隆の縁者である中原知親を土地の人々を悩ませていたと断じ、知親の所領を取り上げました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)4月2日条 \ 北条義時が荏柄(えがら)社前の和田胤長の屋敷地を拝領しました。和田義盛は不満を抱いたものの、再び事情を訴えることはできなかったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)10月17日条 \ 土佐坊昌俊による源義経の宿所への襲撃を知った源行家は、義経のもとに駆けつけました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月17日条 \ 和田胤長が陸奥国岩瀬郡に配流されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)2月15日条 \ 謀反を企てる者たちの使者となっていた僧が捕らえられ、北条義時のもとへ突き出されました。義時はすぐに事情を源実朝に報告すると、大江広元らと評議を行いました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)12月12日条 \ 鎌倉に源頼朝が暮らす新たな御所(大倉御所)が完成しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 \ 残念ながら、寿永2年(1183)の記事は欠落しています。 そこで、第14回は特別編として、『#玉葉』『#百錬抄』『#平家物語』よりエピソードをご紹介します。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)12月11日条 \ 平清盛が五男・重衡を園城寺に派遣し、寺の衆徒(しゅうと)と戦わせました。これは、以仁王の乱の際に園城寺の僧侶が以仁王にくみし、平家と敵対したからです。翌12日、園城寺は焼失しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)2月16日条 \ 僧の白状により、和田義直、和田義重、和田胤長ら謀反を企てる者たちがあちこちで捕らえられました。首謀者は百三十余人、一味は二百人に及ぶようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 \ 残念ながら、寿永2年(1183)の記事は欠落しています。 これまで紹介した「吾妻鏡」の内容は、番組HPの<特集>からご覧いただけます。 #鎌倉殿の13人 nhk.or.jp/kamakura13/spe… nhk.or.jp/kamakura13/spe…
#吾妻鏡 建暦2年(1212)7月8日条 \ 源仲章の使者が京から鎌倉へ到着しました。先月27日に、焼失した閑院内裏(かんいんだいり)再建の事始めが行われたそうです。 #鎌倉殿の13人
治承4年(1180)8月24日、#石橋山の戦い に加わろうと進軍していた三浦勢は、頼朝が敗北したことを知り、撤退することに。その途中、#由比ヶ浜#畠山重忠 率いる平家軍と遭遇し、合戦になりました(#吾妻鏡)。敵味方入り乱れる鎌倉時代、#鎌倉殿の13人 ではそれぞれの行く末はどう描かれるでしょうか。
治承4年(1180)8月17日、#源頼朝 は三嶋大社の神事に合わせて、山木兼隆の館に討ち入りました(#吾妻鏡)。ここから #鎌倉殿の13人 でも描かれた平家との戦い、治承・寿永の乱が始まることに。 #源氏山公園 には、鎌倉入りした頃の頼朝像が。鎌倉入り800年の記念事業として昭和55年に作られたものです。
昨夜は #皆既月食 でしたね🌕#鎌倉 でも天体ショーが見られました! #吾妻鏡 にも複数「月蝕」の記載が。 元久元年(1204)9月15日、#源実朝 が義時邸に行き、帰ろうとしたが月蝕のため泊まることになりました。 同年7月に頼家が修善寺で亡くなっています。彼らはどんな想いで月を見上げたでしょうか…