#吾妻鏡 治承4年(1180)10月7日条 \ 父・義朝の旧跡である亀谷には、義朝の没後を弔うため、岡崎義実が寺院を建立していました。このため頼朝は、この地に新たな館を建てることはやめました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)2月15日条 \ 申の剋(さるのこく/午後3時~5時)に駿河国から鎌倉に飛脚が到着し、「阿野時元が去る11日に多勢を率いて、奥深い山に城郭を構えました。これは宣旨を賜って東国を支配しようと企てたものです」と報告しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)11月24日条 \ 願成就院の造営を奉行するため、北条時政が伊豆国へ下向しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久元年(1219)7月25日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に伊賀光季(いがみつすえ)の使者が京から鎌倉に到着し、「去る13日の未の剋(ひつじのこく/午後1時~3時)に、後鳥羽上皇の考えに背いた源頼茂を誅殺した」と報告しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)5月15日条 \ 源義経の使者が鎌倉に到着。「平宗盛・清宗父子を連れて参上しました。去る7日に出京し、今夜は酒匂駅(現在の神奈川県小田原市酒匂付近)に着くところ。明日、鎌倉に入る予定です」と連絡がありました。 #鎌倉殿の13人
#鎌倉殿の13人 特集/ 公式HPでは 出演者のインタビュー 音声コメント #かまコメ など さまざまなコンテンツを公開中! 『#吾妻鏡』から ドラマで描かれた 主なエピソードもご紹介しています。 ぜひ、総集編と一緒に お楽しみください!! ▼特集一覧 nhk.or.jp/kamakura13/spe…
#吾妻鏡 承元3年(1209)11月20日条 \ 諸国の守護人の怠慢について、国衙(こくが)の役人から訴えがありました。このため幕府で議論が行われ、守護を終身の職とせず、交代制にして、任期を決めて職務にあたらせる案などが検討されました。しかし、決定には至りませんでした。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 御所の西南にある政所の前で、御家人たちが和田義盛の一党を相手に防戦。三浦義村もこれに加わりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久元年(1190)11月7日条 \ 源頼朝が大軍を引き連れて入京しました。先陣は畠山重忠、後陣は千葉常胤が務めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月21日条 \ 和田胤長の娘・荒鵑(6歳)が、父が遠くに行ってしまったことを悲しむあまり病気となり、ついに亡くなりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)8月2日条 \ 源範頼が起請文を書き、兄・頼朝へ献上しました。これは範頼が謀反を企てていると頼朝が聞き及び、尋ねられたためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)7月26日条 \ 源頼家が安達景盛の妾(めかけ)である美女を御所に召し、今後は御所に住むように指示しました。これは、頼家が彼女を非常に寵愛(ちょうあい)していたためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)閏2月12日条 \ 京から鎌倉に使者が到着し、「親王の下向について今月1日に審議があり、後鳥羽上皇が『(雅成親王と頼仁親王の)二人のうち一人を必ず下向させよう。ただし、今すぐにというわけにはいかない』と同4日に命じられた」と報告しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)5月12日条 \ 源実朝は、和田義盛の上総介への推挙について政子に相談しました。しかし、「頼朝様の代に、侍の受領(ずりょう)は停止すると決められました。新しい例を作るのであれば、私が口を挟むことではない」と政子が答え、推挙できなかったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保2年(1214)6月13日条 \ 将軍家領の年貢について、源実朝が「この秋から三分の二を免除する。おおむね毎年一箇所を順番に免除するように」と命じたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元4年(1210)11月22日条 \ 御持仏堂で聖徳太子の御影(南無仏像:2歳のときの聖徳太子が緋の裳(ひのも)を着けて合掌する姿の像)が供養されました。これは源実朝の日頃からの祈願によるものとのことです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月23日条 \ 三浦党が大庭景親の一族の館に火を放ちました。これを知った景親は軍議を行い、黄昏時(たそがれどき)ではあるが三浦党が合流する前に敵をたたくことを決断。石橋山の頼朝の陣に襲いかかりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)1月17日条 \ 源実朝が、讃岐の国守を推挙するので速やかに朝廷へ注進するようにと京都守護へ伝えました。北条泰時を讃岐守に任じられるように審議があったためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)2月4日条 \ 平家はこのころ、摂津国と播磨国の境にある一ノ谷(現在の兵庫県神戸市須磨区)に城郭を構えていました。この日は、平清盛の三回忌を迎え、仏事を行っていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月3日条 \ 辰の剋(たつのこく/午前7時~9時)に西相模の御家人である曽我、中村、二宮、河村の一党が和田勢に加わり、陣を取りました。しかし、源実朝の花押が記された御教書(みぎょうしょ)が届けられると、皆が源実朝側に味方しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久元年(1190)11月9日条 \ 日没になり後白河法皇の御所から退出した頼朝は、続いて閑院内裏に参上して後鳥羽天皇に拝謁。そのあと閑院内裏内の鬼の間にて、摂政・九条兼実と初対面しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月17日条 \ 兵を送り出した源頼朝は館の縁側に出て、放たれた火により敵陣から煙が上がるのを待っていました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保2年(1214)6月3日条 \ 諸国では日照りを愁(うれ)えていました。このため、源実朝は栄西に依頼して雨乞いのために自ら八つの戒律を守り、法華経を転読しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月25日条 \ 荏柄(えがら)社前の和田胤長の屋敷地について、和田義盛が女房を通して「源頼朝様の代より、一族の所領が没収された際に他人に与えられたことはない。私に与えてください」と願い出ました。この件はすぐに聞き届けられ、義盛は喜んだそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)2月7日条 \ 源義経は特に勇敢な武士70余騎を選んで引き連れ、寅の剋(とらのこく/午前3時~5時)に一ノ谷の後ろの山=鵯越(ひよどりごえ)に到着しました。 #鎌倉殿の13人