#青天ナビ】 川村恵十郎は慶喜のそばに仕えることを望み、大政奉還後も、隠棲した静岡まで共にします。その後、明治政府に出仕して大蔵省などで勤務、官僚引退後は日光東照宮の禰宜(ねぎ)となりました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 東京開市三百年祭は家康が江戸に入り、数えで300年となる節目に旧幕臣たちが企画。委員長は榎本武揚、栄一も委員に選ばれます。上野で行われた立食パーティーには約3500人が出席。盛大な花火もあがり、会場からは「東京万歳、徳川万歳」の声があがったそうです。 #青天を衝け
こんばんは、 #青天ナビ です。 東京開市三百年祭で、旧幕臣の仲間と再会の喜びを分かち合う栄一。 そんな中、静岡の慶喜のことも気にかけます。 一方、栄一の息子・篤二の素行が渋沢家を悩ませます…。 夜8時から、ぜひご覧ください。 #青天を衝け
#青天ナビ】 もともと身体の強かった五代友厚は、酒もタバコも好みました。しかし40代になると、心臓病や糖尿病を患い、視力が衰えていきます。大阪から東京に移り療養していましたが、黒田清隆と酒を交わした直後に容態が急変、10日もたたぬうちに亡くなります。 #青天を衝け
#青天ナビ】 共同運輸と三菱は競争によって消耗し、共倒れの危機に…。弥太郎に代わって社長となった弥之助と栄一たち、2社のトップが集まって会談が行われました。その場で共同運輸と三菱の海運部門は合併を決め、日本郵船会社が誕生します。 #青天を衝け
#青天ナビ】 胃がんで亡くなった岩崎弥太郎。激しい胃痛と吐き気に苦しみながらも、最後まで部下に指示を出し続けました。息絶える直前、いまだ自分がなすことの一割二割しかやっていない、いま一度盛り返したいなど、苦しい戦いの中でこの世を去る無念さを口にしたといいます。 #青天を衝け
#青天ナビ】 伊藤は栄一に「相手の悪口ばかり並べてまくしたてるのは君らしくない、これはひきょうなやり方だ。君のような立派な人物がそんなことを言っては困る」などと忠告。栄一はこの時、顔も上げられないほど恥ずかしい思いをし、この忠告を一生の戒めにしようと決めたそうです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 共同運輸との争いがし烈を極めていたころ、岩崎弥太郎は倒れてしまいます。当時の診断は、慢性の胃炎。弥太郎は伊豆で静養したものの、共同運輸との競争が気になり、1か月もたたずに東京に戻って仕事に復帰。しかしこの後、家族は弥太郎が胃がんであることを知ります…。 #青天を衝け
#青天ナビ】 岩倉具視は激務で倒れガンの宣告を受けるも京都御所の整備・保存の仕事にまい進します。しかし病状は悪化。明治天皇の見舞いを受けた際も起き上がれず、布団に袴を置き礼装の代わりとし、合掌して出迎えたといいます。その翌日岩倉は亡くなり日本初の国葬で送られました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 東京府会での養育院廃止論が声高に叫ばれ、まさに廃止の決議がなされようとする直前、栄一は施設存続のための建議書を出します。さらに、自らの資金約2万円を養育院に寄付して、経営維持に努めました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 共同運輸が営業開始してから、三菱との激しい競争が始まります。旅客運賃の値下げ、乗船時の客へのサービス、そして運航時間のスピード競争も加速、ついには衝突事故にまで発展します。約2年にわたり競争が繰り広げられ、両社は利益を得られないまま消耗していきました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 徳川昭武は、1876年フィラデルフィア万国博覧会に参加するため訪米したあと、志願してフランスに再留学します。最初の留学で出会った恩師ヴィレットにも再会、学校を紹介してもらうなどして旧交を温めます。約5年滞在したのち帰国しました。 #青天を衝け
こんばんは、 #青天ナビ です。 千代を失った栄一、その現実から立ち直れない中、伊藤兼子と出会います。 そして新たな会社を立ち上げ、岩崎弥太郎に再び挑む栄一たち、その激しい争いの行方は…。 夜8時から、ぜひご覧ください。 #青天を衝け
#青天ナビ】 コレラに感染し、倒れてしまった千代。名医による懸命な治療も及ばず、息を引き取ります。伝染病で面会は禁止、子どもたちは看取ることもできず…。すぐに火葬され、悲しい別れとなりました。棺の中の最後の千代の顔は、神々しいほど美しかったといわれています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 西南戦争の戦地でコレラが発生。帰還兵により感染が拡大します。外国船からもコレラが持ち込まれるなど、明治10年代は何度も流行しました。政府は感染対策を講じますが、警察の患者強制隔離などもあり、政府に不信感を抱いた人々と、しばしば衝突が起きました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 歌子が結婚した穂積陳重は、財界や政界の有力者ではなく、東京大学法学部に勤める学者でした。栄一は、「長女の歌子には家庭の相談役になってくれる人を」と望んでいたといいます。 #青天を衝け
#青天ナビ】 政府を追われた大隈重信は、新たな政党「立憲改進党」を立ち上げました。イギリスにならった議会政治や、憲法によって君主の権力が定められる立憲君主制を理念に掲げ、古い藩閥体制で運営される政府に切り込んでいきます。 #青天を衝け
#青天ナビ】 大隈重信は、議会開設を求めるなど急進的な主張を行い、自由民権運動に頭を悩ませる岩倉や伊藤らと関係が悪化。伊藤の説得にも耳を貸さず、政府を追放されます。一方で政府は、国民の批判を避けるため、10年後の国会開設を約束。この政治方針転換が明治十四年の政変です。 #青天を衝け
#青天ナビ】 歌子と穂積陳重の縁談は、栄一が政府で働き始めたころの上司、大蔵卿・伊達宗城とのつながりがきっかけです。穂積家は、古くは仙台の伊達家の家臣として、伊達家に仕え続けた名家でした。 #青天を衝け
#青天ナビ】 養育院の運営が東京府に移り、税金が使われるようになると、府会委員の中から「貧しく、働けない人を税金で養うべきではない」という意見が出始めます。栄一は、政治は「仁」に基づいて行うべきだと反論しましたが、府は事業の縮小を決めます。 #青天を衝け
#青天ナビ】 この当時、栄一が米相場で大損し、その穴埋めに三井と組んで船会社を立ち上げた...などの新聞記事が出回りました。これは、岩崎弥太郎が東京風帆船会社に対抗するために講じた策の一つでした。結局、東京風帆船会社は、事業を開始せぬまま敗北します。 #青天を衝け
こんばんは、 #青天ナビ です。 栄一と千代の娘、うたが結婚。渋沢家が幸せな空気に包まれる中、千代が突然、病に倒れてしまいます…。 「栄一と千代」 夜8時から、ぜひご覧ください。 #青天を衝け
#青天ナビ#自由民権運動 は、板垣退助らを中心に起こった、国民の政治参加を促す動きのこと。一部の政治家で運営される明治政府を批判し、自由や権利とは何かを国民に訴え、選挙で選ばれた民が政治に参加することを主張しました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 飛鳥山でのグラントのもてなしは、日本初の民間人による国賓接待でした。準備期間は2日。外務省から西洋家具を借りたり、豪華な西洋料理を手配したり、千代が指揮をとって、家族で準備しました。余興として柔術・槍(そう)術・長刀試合なども披露されました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 欧米では当時、私邸で国の要人をもてなす習慣がありました。日本もそれにならい、選ばれたのが飛鳥山の渋沢邸でした。この場所は、客人を招く別荘としてつくられた広大な邸宅で、グラントの来日前に建物が完成したばかりでした。 #青天を衝け