#青天ナビ】 1931年11月11日、栄一は生涯の幕を閉じました。11月11日は、第一次世界大戦が終結したことにちなんで制定された「世界平和記念日」でした。
#青天ナビ】 栄一は亡くなる3日前に、見舞客に対して、次の言葉を残しました。 「長い間お世話になりました。百歳までも生きて働きたいと思っておりましたが、今度こそは立ち上がれそうにもありません。」
#青天ナビ】 危篤になる2・3日前、栄一は脈を測る医者に対して「脈はありますか、死んだら教えてくださいよ」と冗談を言い、憂いに沈んでいた周囲のみんなを笑わせたそうです。「言葉の端にまであふれる人間味」と当時の新聞記事に紹介されています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 栄一の呼びかけで集まった募金で購入された大量の救援物資は、特に被害の大きかった武漢に船で送り届けられるはずでした。しかし、満州事変が勃発。中華民国側の態度は硬化し、受け取りは拒否されました。物資は無駄にならぬよう現金化し、返金にあてるなどしました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 満91歳の栄一は、洪水で約1千万人が被災した中華民国のために募金を呼びかけます。病気がちのため、自宅に設備を運び入れ生放送する初の試みでした。放送が始まるとしっかりした声で、水害の深刻さとともに日本の震災時に支援してくれたことを伝え、誠意を尽くしました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 敬三は、もっと海外勤務を続けたいと思っていましたが、高齢となった栄一の健康状態がすぐれなかったこともあり、日本への帰国を決意します。帰国後は、横浜正金銀行を辞め、祖父が興した第一銀行へ転職します。 #青天を衝け
#青天ナビ】 震災を知った海外の友人たちが栄一の安否を心配し、大使館などを通じて問い合わせがきました。栄一は電報で答え、友人たちに支援を求めます。すると、海外から援助を申し出る知らせが次々と舞い込んできました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 震災直後、家族は満83歳の栄一を心配し、故郷への避難を勧めます。しかし、栄一は「私のような老人が働いてこそ、生きている申し訳がたつ。これしきの事を恐れて長生きしてきたと思うのか。そんな意気地なしでは役には立たぬ」と一喝したといわれています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 地震のあと、渋沢家では、庭に急ごしらえの丸太小屋をつくり、家族の寝床としました。不気味な余震が続く中、栄一は横になったかと思うと、間もなく大きないびきをかいて、眠りについたといわれています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 栄一は兜町の事務所の書斎で仕事中、震災にあいます。大きな揺れでシャンデリアが落下する中、職員と避難します。その夜、事務所は火災で全焼。慶喜公伝の貴重な資料や西郷や孫文ら友人からの大切な手紙などが焼失、二度と手に入らぬものも多く栄一はとても悔やみました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 敬三は、東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業し、横浜正金銀行に就職。翌年にロンドン支店勤務となり、3年間イギリスに在住します。銀行で働くかたわら、学問への道を忘れられず、現地の博物館や美術館巡りも積極的に行ったそうです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 大正5年の内閣総辞職に伴い、大隈重信は政界から引退します。その後は、妻の綾子と余生を過ごすも体調を崩し、大正11年、早稲田の自宅で亡くなります。日比谷公園で盛大な国葬が行われました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 大正10年、京都に向かうため東京駅にいた原敬は、改札口で、群衆の中から進み出た青年に短刀で胸を刺され、倒れます。すぐに治療を施すもほぼ即死状態でした。 #青天を衝け
#青天ナビ】 ワシントン軍縮会議の結果次第で日米関係に多大なる影響を及ぼす可能性があると考えた栄一。是非渡米しなくてはという思いに至り、満81歳にして4度目の渡米をします。 #青天を衝け
#青天ナビ】 日本人で初めてマスクメロンを食べたといわれる大隈重信。メロンのおいしさを知った大隈は、趣味が高じて邸宅内に温室を作り、メロンを栽培。品種改良を行い、早稲田と名付け、試食会も行います。マスクメロン協会も立ち上げるなど、メロンの魅力に取りつかれます。 #青天を衝け
#青天ナビ】 栄一は、医学博士・北里柴三郎とともに、当時流行し不治の病と恐れられた結核の予防と撲滅に取り組みます。日本結核予防協会を設立し、栄一は副会頭に。機関誌への寄稿や資金集めなどに奔走します。その後、結核予防デーを設けるなど、正しい知識の普及に努めました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 慶喜自身も目を通し、手を入れて完成した『徳川慶喜公伝』。慶喜没後5年となる大正7年に、全8巻が刊行されます。栄一が編さんを始めてから、25年の歳月がたっていました。完成後、栄一はこの伝記を慶喜の墓前に自ら献呈しています。 #青天を衝け
こんばんは、 #青天ナビ です。 今夜、いよいよ最終回、15分拡大版です。 栄一、魂のラストメッセージ ぜひ、ご覧ください。 #青天を衝け
#青天ナビ】 19歳の敬三は農科への進路を志望していました。しかし栄一は、実業の道を歩んでほしいと法科を勧めます。75歳の栄一は、羽織はかまの正装で敬三と向き合い、床にすりつけんばかりに頭を下げ、農科をあきらめて後継ぎとなることを懇願しました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 大正2年、脳溢血(いっけつ)に倒れた井上は左手に麻痺(まひ)が残り、車いすでの生活となります。大隈重信の内閣誕生に尽力するも、興津の別荘で体調を崩し、心臓麻痺で亡くなります。訃報を聞いた栄一は、すぐに列車に乗り井上邸を訪ね、限りなき哀悼の意を表します。 #青天を衝け
#青天ナビ】 大隈重信は76歳にして政界に復帰、第17代内閣総理大臣として、2度目の総理の職を務めます。大隈を後押ししたのが、盟友・井上馨でした。しかしこの内閣は、第一次世界大戦への参加など、外交上で大変難しい舵(かじ)取りを求められました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 栄一は自分のもとに孫文が訪ねてきた際、「政治はやりたい人や他にもできる人間がたくさんいるので、そういう人に任せ、あなたは気骨のある人だから経済のほうに力を注いだらどうか」と、期待をこめて進言したといいます。 #青天を衝け
#青天ナビ】 慶喜は、九男・誠が爵位を授かったお礼をするために宮中に参内した際、風邪をこじらせ、肺炎を発症。77歳で亡くなります。葬儀委員長は栄一が務めました。将軍職を返上した慶喜は、徳川家代々の菩提寺・寛永寺の墓地に入らず、谷中の公共墓地に眠っています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 隠居後も喜作の投資癖は抜けず、何度も失敗しては、栄一が後始末をしていました。74歳で喜作が亡くなったとき、栄一は葬儀で「喜作と私は一身分体の間柄だった」と弔辞を読んでいます。また、東京中の米屋が喜作に弔意を表し半旗を掲げたといわれています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 幼い頃から魚など生物を愛した敬三は、動物学者を志していました。自宅の物置小屋の屋根裏を標本室として、動植物、化石、郷土玩具などを集めます。ここを「アチック(屋根裏)・ミューゼアム・ソサエティ」と名付けて、同じ趣味の仲間との交流の場としました。 #青天を衝け