#青天ナビ】 グラントは1879年6月に妻子と共に来日し、盛大な歓迎を受けます。明治天皇も歓迎し、浜離宮を宿として提供します。天皇は浜離宮を訪れ、グラントと国内・国際情勢について会談しました。また、東京・増上寺にはグラントが植えたという“グラント松”が今も残っています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 大隈綾子にとって、小栗忠順はいとこにあたります。綾子は幼い頃に両親を亡くし、伯父であり、忠順の父である小栗忠高の家で育てられました。忠順とは、兄妹のように育ったともいわれています。綾子にとって小栗家は、親戚以上に深い恩のある家でした。 #青天を衝け
#青天ナビ】 明治9年、欧米の経済を学ぶため、外務大臣の井上馨は妻の武子、娘の末子を連れてアメリカ、イギリス、フランスなどを外遊しました。この経験で、諸外国との不平等条約改正には社交の場が不可欠と考えるようになり、やがて鹿鳴館の建設につながっていきます。 #青天を衝け
こんばんは、 #青天ナビ です。 アメリカ前大統領のグラントを迎えるにあたり、政府だけでなく、民間の代表である栄一たちや、そして、西洋マナーを身につけたご夫人たちまで奮闘します。 明治の日本のおもてなし。 夜8時から、ぜひご覧ください。 #青天を衝け
#青天ナビ】 千代は栄一の妻として表舞台に出たり、目立つ仕事をしたりすることを極力控えていました。しかし、栄一が特に熱心に取り組んでいた養育院には高い関心を持ち、娘のうたを連れて、たびたび養育院を訪れては、お菓子をあげたり、世話をしたりしていたそうです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 岩崎弥太郎から宴席の招待を受けた栄一。弥太郎は、未来の実業はどうあるべきか?と切り出します。合本か、一人の才覚者による経営か、2人の激論が交わされました。共に手を組み日本の実業界を変えようと考えていた弥太郎は、栄一の思わぬ反論にあい、交渉は決裂します。 #青天を衝け
#青天ナビ】 弥太郎は、江戸に出てわずか一年で父がけんかで投獄されたと知り高知に帰ります。父の免罪を訴えるも通らず「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によりて決す」と奉行所の門柱に落書きし投獄されました。獄中で同房の商人から商売の基礎を学び、実業に進むキッカケを得ます。 #青天を衝け
#青天ナビ】 政府はパークスらから、日本には商業や工業の世論を結集する代表機関がないと指摘を受けていました。政府から相談を受けた栄一は東京商法会議所を設立、27年間会頭を務めます。大阪では五代友厚が大阪商法会議所を設立。「東の渋沢、西の五代」と称されます。 #青天を衝け
#青天ナビ#不換紙幣 は、金貨や銀貨と交換できない紙幣。西南戦争(鹿児島戦争)で戦費不足となった政府は、不換紙幣を大量に発行して戦費をまかないました。結果、一時的に景気は回復しますが、その後インフレが過熱、日本経済は打撃を受け、政府の財政は破綻寸前になります。 #青天を衝け
こんばんは、 #青天ナビ です。 岩崎弥太郎から宴席の誘いを受けた栄一。 この機会を楽しみにしていた栄一でしたが、いざ会が始まると、日本を豊かにするための“考え方”で真っ向対立! 激論 栄一 VS. 弥太郎 夜8時から、ぜひご覧ください。 #青天を衝け
#青天ナビ】 1878年、大久保利通は馬車で自宅から赤坂仮皇居へ向かう途中、麹町の紀尾井坂近くで暗殺されます。政府内での大久保や岩倉具視への権力集中に不満を抱いた、石川県士族・島田一郎ら6名によるものでした。政府関係者はこの知らせに大きな衝撃を受けました。 #青天を衝け
#青天ナビ#西南戦争 は、1877年に鹿児島の士族が西郷隆盛を擁立して起こした反乱。征韓論に敗れ下野した西郷が、鹿児島の私学校の生徒や士族、総勢約2万5千人とともに挙兵。しかし、政府軍が総力を挙げて鎮圧し、西郷は自害。不平士族の最後の反乱ともいわれています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 経営危機を乗り越えた三井組は、銀行創立願書を東京府に提出します。このときの実質的な経営者は三野村利左衛門でした。政府もこれを認め、明治9年、日本初の私立銀行・三井銀行を駿河町に開業。しかし三野村はがんのため開業式に出席できず、その後この世を去りました。 #青天を衝け
#青天ナビ#三野村利左衛門 はかつて両替商として、幕府の勘定奉行だった小栗忠順のところに出入りしていました。その頃の恩義もあり、三野村は明治に入ってから、亡き小栗の家族を日本橋の別邸に呼び寄せます。三野村は終生、小栗家の面倒を見続けたといわれています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 栄一は、政府から資金を預かり、業者から一定料金で蚕卵紙を買い取ります。高品質のものは国内販売や保存に、粗悪品は焼き捨てに回しました。喜作らが中心となり、現在の横浜公園辺りで、2か月にわたり約50万枚を焼却。その後、徐々に値段は回復しました。 #青天を衝け
#青天ナビ#東京日日新聞 は東京初の日刊紙。#郵便報知新聞 は、前島密の立案で創刊した新聞。福地源一郎も栗本鋤雲も、記者のトップである主筆をそれぞれ務め、やがて福地は社長に、栗本は編集主任へ出世します。2社はしばしば熱い論戦を展開しました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 欧州では蚕の病気が流行して大打撃を受けたため、日本の蚕の卵が求められ、全国各地の蚕卵紙が横浜から次々に輸出されます。しかし大量供給による品質低下で、外国商人は買い控えるようになり…養蚕業者は大打撃を受け、自殺者も出るほどでした。 #青天を衝け
#青天ナビ#養育院 は東京の貧しい人や病気の人、両親を失った子どもなどを保護する施設。福祉事業の原点ともいえる施設です。寛政の改革で老中 松平定信が江戸の貧民救済資金として貯えた七分積金を生かすべく、東京府知事 大久保一翁が立案。運営の舵取り役に栄一が選ばれました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 伊藤博文、井上馨の仲介で、大久保利通と木戸孝允や板垣退助の極秘会議が大阪でもたれました。目的は木戸、板垣の政府復帰。それに向け、大久保は大阪の五代邸に約2か月間滞在します。2人は時を忘れて囲碁を打ち、作戦会議をするなど、特別な時間を過ごしました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 1874年10月、急に政府は抵当増額令を発令し、預けていた金の全額分に相当する担保を要求します。期限はわずか2か月。小野組は政府からの預かり金の多くを事業投資していたため、資金回収不能となり、11月に本店を閉店して破綻します。 #青天を衝け
#青天ナビ#古河市兵衛 は小野組の番頭として、生糸や米、鉱山などの部署を任され、正直で誠実な人柄を栄一も買っていました。小野組破綻で人生が一転するも、栄一らの資金援助で鉱山経営に専念して復活、特に足尾銅山を全国一の銅山にまで発展させました。 #青天を衝け
こんばんは、 #青天ナビ です。 小野組の放漫経営で、第一国立銀行が存続の危機に…。 この機を見逃さない三野村は、乗っ取り計画をもくろむ。 大ピンチの栄一は、銀行の存亡をかけ大勝負に! 今夜は、“夜7時10分”からの放送です。 ぜひ、ご覧ください。 #青天を衝け
#青天ナビ】 台湾出兵の際、輸送船の手配で英米から協力を断られた日本。大隈は汽船を13隻購入しますが、運航する船会社がありません。そこで民間への運航業務の委託をもくろむ政府と岩崎弥太郎の熱心な訴えが合致し、三菱商会が運航会社に選ばれました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 1874年、政府の強引な中央集権化に反対した佐賀士族らが起こした #佐賀の乱。征韓論で大久保や岩倉に敗れ下野した江藤新平は、不平士族説得のため帰郷しますが、逆にリーダーに祭り上げられます。しかし大久保が全権を握る政府軍が鎮圧。江藤は捕まり、斬首となりました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 岩倉具視暗殺未遂事件は、赤坂喰違(くいちがい)の変といわれています。1874年1月、政府内で起きた征韓論争に敗れた不平士族が岩倉を襲撃。岩倉は眉の下と腰を負傷しますが、堀に身を隠したことで助かります。しかしトラウマが大きく、公務復帰に1か月以上を要しました。 #青天を衝け