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#時代考証の呟き #どうする家康   (5)「国家」再論 第7回の呟きで、家康の改名には、三河を一つの家と捉え、それに平穏をもたらしたいという彼の願いが込められていたことについて解説しました。戦国大名は、自らの領国を「国家」と呼び、それは、国とは、家(家を中心とする一族)の集合体と
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大河ドラマ「どうする家康」第9回「守るべきもの」はいかがでしたでしょうか?さて、今回に関する時代考証のポイント解説をしましょう。←今日は早いww #時代考証の呟き #どうする家康
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#時代考証の呟き #どうする家康 (1)戦国の乱取り 戦国時代は、合戦があると、その周辺の村町、寺社に対して雑兵たちが様々なものを略奪することが横行していました。これを「乱取り」といいます。後の、小田原出兵を行った豊臣秀吉は、この乱取りを「東国の習い」とまでいいましたが、事実ではあ
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以上で、第9回の解説を終わります。今宵はここまでにいたしとうござりまする。また次回をご期待下さい。ただ、来週の日曜日はリアタイできないので、後日になります。ご了承くださいませ。では、バイナラ👋 #時代考証の呟き #どうする家康
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静岡駅で呑んだくれてたら、どうする家康のキャンペーンやってて、アンケートしてノートもろた😆嬉しい🎵😍🎵#どうする家康 #時代考証の呟き
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その通りです。あのですね、戦国期は今よりも気温が低く、寒冷期だったことは、中世史の常識です。そのせいで、永禄期は東国は「永禄の大飢饉」が発生していたんです。 #時代考証の呟き twitter.com/lawtomol/statu…
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皆様、スミマセン🙇あまりに忙しすぎて、 #時代考証の呟き が出来ません。いま少しお待ちくださいませ🙇それにしても、私や柴裕之氏、黒田基樹氏の最新の著書すら読まずに、色々言う人がいるんですね。一緒懸命書いてるので、まずは読んで下さいまし
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【お知らせ】来週の火曜日から、#時代考証の呟き を少しずつ再開しますね。いま少しお待ちくださいませ🙇
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皆さま、お久しぶりです。呟くが停滞してしまい、大変申し訳ありませんでした。少しゆとりができましたので、 #時代考証の呟き を再開しようと思います。大河ドラマ「どうする家康」第10回「側室でどうする!」に関する時代考証のポイント解説をしましょう。 #時代考証の呟き #どうする家康
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皆さま、お久しぶりです。呟くが停滞してしまい、大変申し訳ありませんでした。少しゆとりができましたので、 #時代考証の呟き を再開しようと思います。大河ドラマ「どうする家康」第10回「側室でどうする!」に関する時代考証のポイント解説をしましょう。 #時代考証の呟き #どうする家康
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(1)飯尾連龍と家康 今回は、引馬城主飯尾連龍が登場しました。三河一向一揆を平定した直後に、引馬城で家康と会見をしたという設定です。ドラマでは語られませんでしたが、飯尾は家康が三河一向一揆と対立した、同じ永禄6年12月に今川氏真に叛乱を起こしています。 #時代考証の呟き
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(3)家康側室西郡の方と督姫 今回、正室築山殿の差配で側室となった西郡の方(お葉)が登場しました。彼女は、家康の息女督姫(督、徳、富〈ふう〉、普子などとも)を産んでいます。西郡の方は、ドラマでは女房衆の一人として築山殿に仕える女性という設定でした。 #時代考証の呟き #どうする家康
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ことは、恥ではないよ。調べて知識を更新することの方が大事だよ」とずっと言い聞かせていた。アタクシも、何か書く時は、必ず情報源の確認を怠らない。当たり前ですよ、プロはなおさらですから。皆さんも、よく調べてから批判してくださいね。 #時代考証の呟き
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さすがにこれはまずいでしょ?なので「あほたわけ」なのです。いろいろ事情があるのよ。 #時代考証の呟き
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1、家康の従五位下三河守叙任と「徳川」改姓について 松平家康は、永禄九年十二月十五日、従五位下三河守に叙任され、苗字も「徳川」に改めました(実際の叙任は、翌永禄十年一月三日)。今回は、この経緯が描かれましたが、 #時代考証の呟き #どうする家康
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3,お田鶴の方について 今回は、お田鶴の方が壮烈な最期を遂げ、見ていた方々の涙を誘いましたね。彼女は、ちゃんとした史料がなく、謎に包まれた人物です。近世中期以降に記された系譜や軍記物、地誌などに登場します。 #時代考証の呟き #どうする家康
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去年の鎌倉殿もそうでしたよね。あれが、命のやり取りをする過酷な時代の武者のメンタリティーなんだろうなぁと、史料を読む度に思います。 #時代考証の呟き
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奥平信昌の「信」は、武田から与えられたもの。天正3年以前に、「信昌」署名の発給文書あり。奥平家は、信昌を称揚すべく家伝を創作した。だって信長から一字を貰った、しかも亀姫も輿入れした特別な家となるから。 #時代考証の呟き
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援軍に来なければ、織田と手を切り武田と合力すると家康が言ったという史料は、近世のものだが存在する。金子拓氏はありうると考えておられる。私は懐疑的ですが。 #時代考証の呟き
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鳥居強右衛門の姿を今に伝える背旗は、「落合左平次指物」と言われるものです。かつて落合は武田家臣とされてきましたが、金子拓氏の調査により、子孫家蔵の文書、記録、そして鳥居強右衛門背旗の下絵などの発見、精査がなされ、徳川家臣だったことが判明しました。 #時代考証の呟き
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鳥居強右衛門背旗でもう1つ。この姿が通常の磔か、逆磔かで議論がありましたが、金子拓氏の調査により、通常の磔姿で決着となりました。詳しくは金子拓『鳥居強右衛門』平凡社をご覧くださいませ。#時代考証の呟き
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強右衛門が城に向かって叫んだところと、磔にされた場所は違うのですよ。現在の磔跡の石碑は、かつては別の場所だったのですが、飯田線敷設に伴い現在地に移されています。 #時代考証の呟き twitter.com/44_the_hermit/…
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『家忠日記』は、天正5年からの部分が現存しています。なので、残念ながら天正3年の長篠合戦は記録されてません。あれば、どれだけのことがわかったことか。『三河物語』と『甫庵信長記』に記述があるので、当時から知られた人物だったことは間違いないです。 #時代考証の呟き twitter.com/tosho_zusho/st…
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よくある誤解。三河の国衆奥平氏の通字は、「貞」ではなく「定」。奥平定勝、定能などとなる。「貞能」なんかは、系図か軍記物のみで、当時の文書ではすべて「定能」。これは2010年代初めには明確に指摘されていた。要注意ですね。 #時代考証の呟き
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決戦前夜の5月20日、信長本陣で武田方の様子を、忍びの報告をもとに披露したのが酒井忠次。『譜牒余録』によると、信長はいたく機嫌がよく、「海道一番の武辺者」と讃え、「噂に聞く夷舞」を所望し、忠次の舞を楽しんだとある。今回は、これが脚色の元ですね。 #時代考証の呟き #どうする家康