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「どうする家康」第1回で「蔵人」のことを「くろうど」ではなく「くらんど」と言ったので、異論がすごいらしい。どちらも正解です。むしろ「くらんど」読みの方が、室町・戦国期には多い。文明、明応、天正本節用集、元亀本運歩色葉集などはいずれも「クランド」と注記されている。#時代考証の呟き
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どなたのツィートだったかはわかりませんが、大草松平氏が鉄炮をかなり装備していることを疑問視する意見がありました。当時鉄炮はそんなに普及していなかったのでは?ってやつです。いいえ、戦国日本の鉄炮拡散の速さと数量は、外国人宣教師が信じられないと記録しているほどです。#時代考証の呟き
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あとですね、ホンモノの馬だと、あれらのアングルでの撮影は不可能。馬が怖がってダメなのです。「真田丸」の時も、信繁の騎乗シーンは、馬の精密な模型だったのは記憶に新しい。#時代考証の呟き twitter.com/NobunagA_A/sta…
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その通りです。あのですね、戦国期は今よりも気温が低く、寒冷期だったことは、中世史の常識です。そのせいで、永禄期は東国は「永禄の大飢饉」が発生していたんです。 #時代考証の呟き twitter.com/lawtomol/statu…
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鳥居強右衛門の姿を今に伝える背旗は、「落合左平次指物」と言われるものです。かつて落合は武田家臣とされてきましたが、金子拓氏の調査により、子孫家蔵の文書、記録、そして鳥居強右衛門背旗の下絵などの発見、精査がなされ、徳川家臣だったことが判明しました。 #時代考証の呟き
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あのね、浜松城から宇布見に出て、佐鳴湖へ遡上するルートがあるのよ。瀬名もそれに乗ってきたはず。家康は、宇布見で彼女を捕捉できず、急ぎ舟で佐鳴湖へ向かい合流したと考えれば、設定に無理なし。 #時代考証の呟き #どうする家康 chunichi.co.jp/article/721557
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鳥居強右衛門背旗でもう1つ。この姿が通常の磔か、逆磔かで議論がありましたが、金子拓氏の調査により、通常の磔姿で決着となりました。詳しくは金子拓『鳥居強右衛門』平凡社をご覧くださいませ。#時代考証の呟き
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中世の虹は、掛かっている場所、方角が不吉。なので駿河方面に掛かった虹をみて今川氏の不吉を信玄はみた設定。勝頼は織田・徳川軍の方に掛かった虹をみて相手の不吉、武田の吉兆をみた設定。 #時代考証の呟き twitter.com/naoejou/status…
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去年の鎌倉殿もそうでしたよね。あれが、命のやり取りをする過酷な時代の武者のメンタリティーなんだろうなぁと、史料を読む度に思います。 #時代考証の呟き
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かにされました。これは、氏真がいかに家康に期待をかけ、対織田戦で尽力して欲しいと願っていたかを表しています。ですがこのことがはっきりしたのは、脚本が完成した後のことでした。そのため今回は、通説どおりの扱いになっています。#時代考証の呟き
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(1)一向宗の名称と信者たち
教科書などで、親鸞を開祖とする教団は、浄土真宗とされ、これは一般常識となっています。ところが、親鸞は自身の宗派を恩師法然の教えを引き継ぐ「浄土真宗」と自認していました。そして蓮如は、これを継承して宗派名とすべく努力するのですが、#時代考証の呟き
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家康は、関白近衛前久の斡旋により正親町天皇から、「従五位下三河守」に叙任され、姓を「徳川」に改めました。この結果、三河で「徳川」姓は家康一人のみとなったわけです。彼は、松平一族が多くいる三河で、それより上位に立つこととなりました(叙任と改姓はそれが狙いの一つ)。 #時代考証の呟き twitter.com/Mrmoonlight16/…
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援軍に来なければ、織田と手を切り武田と合力すると家康が言ったという史料は、近世のものだが存在する。金子拓氏はありうると考えておられる。私は懐疑的ですが。 #時代考証の呟き
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@iroiro_binbou 彼が「蘭丸」と称した事例は存在しないのです。彼の文書には「乱」「乱法師」とあり、諱は「成利」です。森蘭丸というのは、軍記物などによる呼称。なので今回は、森乱としていただきました。 #時代考証の呟き
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