#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月5日条 \ 源頼家が比企能員らが滅亡したことを知りました。その憂いと憤りは、こらえられないほどすさまじいものだったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月5日条 \ 比企一党の滅亡を知った源頼家が、北条時政を誅殺するようにと、和田義盛と仁田忠常にひそかに命じました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月5日条 \ 源頼家から北条時政を誅殺するように命じられた和田義盛が、このことを時政に伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月6日条 \ 源頼家から北条時政の誅殺を命じられていた仁田忠常が亡くなりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月15日条 \ 去る7日、源頼朝の息子・千幡(のちの源実朝)に対し、従五位下の位記と征夷大将軍の宣旨が下されて、その文書が鎌倉に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月29日条 \ 源頼家が伊豆国修善寺に下向しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)10月8日条 \ 源頼朝の息子・千幡が元服し、源実朝と名を改めました。 #鎌倉殿の13人
治承4年(1180)8月24日、#石橋山の戦い に加わろうと進軍していた三浦勢は、頼朝が敗北したことを知り、撤退することに。その途中、#由比ヶ浜#畠山重忠 率いる平家軍と遭遇し、合戦になりました(#吾妻鏡)。敵味方入り乱れる鎌倉時代、#鎌倉殿の13人 ではそれぞれの行く末はどう描かれるでしょうか。
#吾妻鏡 建仁3年(1203)10月9日条 \ 源実朝の政務開始の儀式である政所始(まんどころはじめ)が行われました。別当である北条時政、大江広元らが着座し、時政が実朝の御前に吉書(吉日良辰を選んで慶賀のしるしに発給する文書)を持参しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)10月9日条 \ その後、源実朝は初めて鎧(よろい)を着て、また、馬に乗りました。この際、北条時政が実朝の補助を行いました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)10月19日条 \ 源実朝への代替わりに伴い、平賀朝雅、中原親能から京・畿内の御家人たちに対し、起請文を進上するように命が下されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)11月6日条 \ 伊豆の源頼家から「退屈なので近習をよこしてほしい」「安達景盛を私に引き渡し、処分させてほしい」といった内容の書状が届きました。審議の結果、要求はいずれも妥当ではないと判断されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)11月6日条 \ 三浦義村が使者として送られ、書状に対する審議の結果が源頼家へ伝えられました。頼家には、今後は書状を送ることも控えるようにと忠告したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)11月10日条 \ 三浦義村が伊豆より帰参し、源頼家の閑居での様子を詳しく伝えました。これを聞いた政子は、たいそう悲しんだそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁4年(1204)1月12日条 \ 源実朝の読書始(どくしょはじめ)が行われました。講義を行ったのは源仲章。才知の誉(ほま)れはないが、好んで書籍を集めており、百家九流(多方面の学問)に通じていると評されています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)7月19日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に伊豆からの飛脚が鎌倉へ到着。「昨日18日に源頼家が修善寺で亡くなられた」と報告したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)7月26日条 \ 安芸国壬生庄(現在の広島県北広島町壬生)の地頭に関する裁定が、源実朝の御前で行われました。実朝が直(じか)に政道を裁断するのは、これが初めてです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)10月14日条 \ 源実朝の御台所として下向する前大納言・坊門信清の息女(千世)を迎えるため、北条政範、結城朝光、畠山重保らが京へ向かいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)11月5日条 \ 子の剋(ねのこく/午後11時~翌午前1時)に北条政範が亡くなりました。享年16。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)11月13日条 \ 去る5日に北条政範が京で死去したことを伝える飛脚が鎌倉に到着しました。最愛の息子の死を知らされた父・北条時政と母・牧の方(りく)の悲嘆は、比べようもないほどであったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)11月20日条 \ 京から帰った北条政範の召し使いが、去る4日に平賀朝雅の酒宴があり、その際に朝雅と畠山重保との口論があったと伝えました。同席者がなだめたため、その日は何事もなく散会したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)12月10日条 \ 源実朝の御台所(千世)が鎌倉に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月21日条 \ 牧の方(りく)が平賀朝雅の讒言(ざんげん)を受けて立腹。畠山重忠・重保父子を誅殺しようと、内々に謀議が行われました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月21日条 \ 畠山重忠・重保父子を誅殺しようとする父・北条時政に対し、義時と時房は「重忠は治承4年(1180)以来、忠節を尽くしてきた。数々の勲功をないがしろにし、軽率に誅殺すれば後悔することになるでしょう」と諌(いさ)めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)4月11日条 \ このところ武蔵国に蟄居(ちっきょ)していた稲毛重成が、北条時政の招きに応じ、従者を率いて鎌倉に参上しました。鎌倉内は騒がしく、近国の御家人たちが群参して武具が整えられているというウワサがあったようです。 #鎌倉殿の13人