#吾妻鏡 \ 残念ながら、建久7年(1196)~建久10年(1199)1月までの記事は欠落しています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 \ 残念ながら、建久7年(1196)~建久10年(1199)1月までの記事は欠落しています。 そこで、第25回は特別編として、『鎌倉大日記』と後年の『吾妻鏡』よりエピソードをご紹介します。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦2年(1212)2月28日条 \ 相模川の橋の修理について評議があり、かつて橋が新造されたときの事情が話題になりました。去る建久9年(1198)、稲毛重成が橋を新造したとき、その供養に参列した頼朝が、帰路落馬したのです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 \ 残念ながら、建久7年(1196)~建久10年(1199)1月までの記事は欠落しています。 そこで、第26回は特別編として、『百練抄』と『猪隈関白記』よりエピソードをご紹介します。 #鎌倉殿の13人
1192年(建久3年)7月12日、頼朝が征夷大将軍に任命されます。同7月26日には勅使が鎌倉に到着、鶴岡八幡宮で三浦義澄が任命書を受け取りました(#吾妻鏡)。#鎌倉殿の13人 #大河ドラマ館 では、#大泉洋 さん着用の狩装束をケース外に特別展示中。武家の棟梁らしい豪華な衣装を360度ご覧いただけます! twitter.com/nhk_kamakura13…
建久8年(1197)7月14日、頼朝の長女・大姫が亡くなりました。#吾妻鏡 には、許婚の源義高を慕い、その亡き後病みついてしまったという記録が残ります。#鎌倉殿の13人 でも悲しい最期でした😢 #常楽寺 裏山に大姫の墓とも伝わる塚が残る他、亀ヶ谷に大姫の守り本尊を祀ったという岩船地蔵堂があります。
#吾妻鏡 建久10年(1199)4月12日条 \ 幕府に寄せられるさまざまな訴訟については、北条時政、北条義時、大江広元、三善康信、中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政の13人が対応するようになったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久10年(1199)4月12日条 \ 13人の宿老以外が理由もなく、源頼家に訴訟の取り次ぎを行うことは禁止されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)6月30日条 \ 源頼朝の娘・三幡が亡くなりました。母・政子は悲嘆し、周囲の人間の悲しみは記しきれないほどだったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)6月30日条 \ 三幡の乳母夫(めのと)である中原親能が、彼女の死を悼み出家しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)7月26日条 \ 源頼家が安達景盛の妾(めかけ)である美女を御所に召し、今後は御所に住むように指示しました。これは、頼家が彼女を非常に寵愛(ちょうあい)していたためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)8月19日条 \ 妾(めかけ)のことについて、安達景盛が源頼家を恨んでいるという訴えがありました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)8月19日条 \ 訴えられた源頼家は、安達景盛の誅殺(ちゅうさつ)を命じました。しかし、政子が景盛をかばい、「景盛は信頼が厚く、頼朝が特に情けをかけていた。誅殺すれば必ず後悔するでしょう」と頼家を諭しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)10月25日条 \ 結城朝光が御所内で、「忠臣は二君に仕えずという。私は頼朝様に特にご恩を賜っており、遺言により出家遁世(とんせい)しなかったことを非常に後悔している」と語りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)10月27日条 \ 結城朝光の「忠臣は二君に仕えず」という発言に対し、梶原景時が頼家に対する背信と断じ、御家人たちを引き締めるためにも断罪すべきだと進言しました。このことを阿波局(実衣)が結城朝光に伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)10月27日条 \ 梶原景時によって誅殺(ちゅうさつ)の危機にある結城朝光を救うためには、特別な計略がなければ難しいと答えた三浦義村が、景時に不満を持つ御家人たちによって連署の訴状を作り、鎌倉殿に訴えることを提案しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)10月28日条 \ 千葉常胤、三浦義澄、畠山重忠、比企能員らが賛同した梶原景時を糾弾する訴状を、和田義盛と三浦義村が持参し、大江広元に渡しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)11月10日条 \ 梶原景時を訴える連署の書状を受け取った大江広元は、頼朝に忠節を尽くした景時が罪に問われるのは不憫(ふびん)であり、和平への道を探るべきだと考え、源頼家に訴状を渡すのをためらっていました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)11月10日条 \ 梶原景時を訴える訴状を源頼家に渡すことをためらっていた大江広元に対し、和田義盛が「景時を怖れているのか」と一喝。「鎌倉殿に渡すのか、渡さないのか、今はっきりと返答しろ」と迫りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)11月13日条 \ 梶原景時は自身を訴えた御家人たちの訴状に対して弁明することができず、子息や親類らを率いて相模国一宮に下向しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)1月20日条 \ 梶原景時が子息を伴い、所領である相模国一宮を発(た)ちました。景時は上洛するつもりだとウワサされていたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)1月20日条 \ 三浦義村ら御家人たちの追撃により、梶原景時・景季親子らが討ち取られました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)1月23日条 \ 三浦義澄が亡くなりました。享年74。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)4月9日条 \ 4月1日に北条時政が遠江守に任じられ、従五位下に叙されました。これを伝える除書(除目の結果を伝える書類)が、9日に届きました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)5月28日条 \ 陸奥国葛岡郡の新熊野社(いまくまのしゃ)の僧が所領の境を巡り争っているため、惣地頭である畠山重忠が裁きを求めました。 #鎌倉殿の13人