#吾妻鏡 正治2年(1200)5月28日条 \ 源頼家は新熊野社(いまくまのしゃ)の僧が進上してきた境の絵図を確認すると、自ら筆を取って絵図の中央に線を引きました。そして、「所領の広い狭いは運による。今後、所領問題についてはこのように裁断する」と申し付けました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁元年(1201)9月22日条 \ 北条時連らが集まり、源頼家による蹴鞠(しゅうきく)会がまた行われました。ちなみにこの月は、11日、15日、20日にも蹴鞠が行われています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁元年(1201)9月22日条 \ たびたび蹴鞠を行う源頼家に疑問を抱き、頼時が共に頼家の近習を務める中野能成に「8月に台風によって鶴岡八幡宮の門が倒壊し、国は飢饉に愁(うれ)えています。このような時に、いまのなされようはどうなのか」と相談しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁元年(1201)10月6日条 \ 伊豆国北条に下向した頼時が、5日に到着。頼時は8月の台風被害などによる食糧不足と、借りた米の債務に苦しむ百姓たちを憂い、証文を焼き捨てました。また、食事と酒を提供し、一人当たり一斗の米を配布しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁2年(1202)8月2日条 \ 京から鎌倉に使者が到着し、先月7月22日に源頼家が従二位に叙され、征夷大将軍に補任されたと伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁2年(1202)8月23日条 \ 頼時が三浦義村の娘(初)と結婚しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁2年(1202)12月19日条 \ 源頼家のお供をしていた平知康が古井戸に落ちました。幸い命は助かったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁2年(1202)6月25日条 \ 平知康が北条時連に「時連の『連』の字は銭貨を貫くという意味だろうが、ふさわしくない。早く名前を改めたほうが良い」と助言し、時連は名を改めることを承諾しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)3月10日条 \ 源頼家が突然、病にかかりました。14日には病が治り、沐浴(もくよく)を行ったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)5月19日条 \ 阿野全成に謀反の疑いがあり、御所内に拘禁されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)5月20日条 \ 源頼家から命じられた比企時員が、阿野全成の妻である阿波局(実衣)を尋問するので身柄を引き渡すよう、政子に要求しました。これに対し政子は、「阿波局(実衣)に疑わしいところはない」とはねのけました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)5月25日条 \ 阿野全成が常陸国に配流となりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)6月23日条 \ 源頼家の命により、八田知家が阿野全成を誅殺しました。 #鎌倉殿の13人
建久3年(1192)8月9日、頼朝と政子の次男・千幡、のちの #源実朝 が誕生しました(#吾妻鏡)。#鎌倉殿の13人 に実朝として登場するのはもう少し先ですが、#大河ドラマ館 のデジタルサイネージではもう会うことが出来ますよ😉実朝役・ #柿澤勇人 さんのサインも展示しています♪
貞永元年(1232)8月10日、#北条泰時 による #御成敗式目 の編纂が完了し、訴訟はこの法に基づいて行なうよう定められました(#吾妻鏡)。 若い頃に宿老たちが土地問題などでモメているのを見てのことでしょうか…。#鎌倉殿の13人 ではまだ頼りない泰時ですが、これからの活躍が楽しみですね!#坂口健太郎
寿永元年(1182)8月12日、夕刻に政子が男子(のちの二代目鎌倉殿 #源頼家)を出産(#吾妻鏡)。同日行われた乳母の儀式では、河越重頼の妻で比企尼の娘がその役を務めました。 #鎌倉殿の13人 ではいよいよ比企と北条の戦いが勃発⚡病に倒れた頼家はどうなってしまうのか…目が離せません。
#吾妻鏡 建仁3年(1203)7月20日条 \ 源頼家が急に病にかかりました。苦痛はただごとではないほどだったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)7月25日条 \ 源仲章の使者が京から鎌倉に到着。去る16日に在京御家人を動員し、阿野全成の息子・頼全を誅殺したことが伝えられました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)8月27日条 \ 源頼家の病状が危険な状態となり、関西三十八カ国の地頭職を弟・千幡(のちの源実朝)に、関東二十八カ国の地頭、および、惣守護職を長男・一幡に譲与する配置が行われました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)8月27日条 \ 頼家の弟・千幡と長男・一幡への分割譲与の話を聞いた比企能員は、ひそかに立腹し、恨みを抱いたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月2日条 \ 北条時政の使者が比企能員のもとを訪れ、「さまざまな事柄を話し合いたい」という時政の意向を伝えました。これに対し能員は、「武装した郎党を引き連れて向かうべき」という息子らの忠告を制し、丸腰で時政のもとへ向かいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月2日条 \ 郎党2人、雑色5人というわずかな供を連れて北条時政の館を訪れた比企能員が、仁田忠常らによって誅殺されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月2日条 \ 逃げ帰った従者から比企能員が討たれたことを告げられた比企一党は、館に立て籠もり、攻め寄せる義時らの軍勢を迎え撃ちました。死を恐れず奮戦した比企一党ですが、軍勢の勢いには対抗できず、館に火を放ち滅亡しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月5日条 \ 源頼家の病気が少し回復し、かろうじて命を長らえました。 #鎌倉殿の13人
治承4年(1180)8月17日、#源頼朝 は三嶋大社の神事に合わせて、山木兼隆の館に討ち入りました(#吾妻鏡)。ここから #鎌倉殿の13人 でも描かれた平家との戦い、治承・寿永の乱が始まることに。 #源氏山公園 には、鎌倉入りした頃の頼朝像が。鎌倉入り800年の記念事業として昭和55年に作られたものです。