#吾妻鏡 建暦元年(1211)9月15日条 \ 源頼家の息子・善哉が、鶴岡八幡宮の別当・定暁のもとで出家しました。法名は公暁です。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦元年(1211)9月22日条 \ 僧として仏の定めた戒律を受けるために、公暁が鶴岡八幡宮の別当・定暁に連れられて上洛しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦2年(1212)5月7日条 \ 北条朝時が御台所(千世)に仕える女房との間で問題を起こし、源実朝からお怒りを受けました。父・義時から勘当された朝時は、駿河国富士郡へ下向しました。 #鎌倉殿の13人
治承4年(1180)10月21日、平家との戦いの陣に #源頼朝 に会いたいと若者が訪ねてきました。奥州に逃れた弟 #源義経 でした。二人は過ぎた日々を語り合い、涙を流した、と #吾妻鏡 にあります。 #鎌倉殿の13人 #大河ドラマ館 では、義経の甲冑展示は終了しましたが、等身大パネルは健在です!#菅田将暉
#吾妻鏡 建暦2年(1212)7月8日条 \ 源仲章の使者が京から鎌倉へ到着しました。先月27日に、焼失した閑院内裏(かんいんだいり)再建の事始めが行われたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)2月15日条 \ 謀反を企てる者たちの使者となっていた僧が捕らえられ、北条義時のもとへ突き出されました。義時はすぐに事情を源実朝に報告すると、大江広元らと評議を行いました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)2月16日条 \ 僧の白状により、和田義直、和田義重、和田胤長ら謀反を企てる者たちがあちこちで捕らえられました。首謀者は百三十余人、一味は二百人に及ぶようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)2月16日条 \ 事件の発端は、信濃の泉親平(親衡)が一昨年より謀反を企て、和田胤長らに声をかけていたことでした。源頼家の遺児(のちの栄実)を将軍とし、北条義時を殺害しようとしたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月2日条 \ 謀反の首謀者である泉親平(親衡)が筋違橋あたりに隠れているとのウワサがあり、捕縛に向かいました。しかし取り逃し、とうとう親平の行方はわからなくなってしまいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月8日条 \ 和田義盛が御所に参上し、源実朝と対面しました。義盛が謀反人とされた息子・義直、義重の処分のことを愁(うれ)うと、義盛のこれまでの勲功に免じて、二人の罪が許されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月9日条 \ 和田義盛がきょうも御所に参上。一族九十八人を引き連れて、御所の南庭に列座しました。これは甥(おい)の和田胤長が赦免されるように申請するためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月9日条 \ 和田義盛が胤長の赦免を求めますが、胤長は首謀者のひとりであり、特に策謀をめぐらせていたため許されることはありませんでした。胤長は後ろ手に縛り上げられ、一族が列座する前で連れていかれました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月17日条 \ 和田胤長が陸奥国岩瀬郡に配流されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月21日条 \ 和田胤長の娘・荒鵑(6歳)が、父が遠くに行ってしまったことを悲しむあまり病気となり、ついに亡くなりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月25日条 \ 荏柄(えがら)社前の和田胤長の屋敷地について、和田義盛が女房を通して「源頼朝様の代より、一族の所領が没収された際に他人に与えられたことはない。私に与えてください」と願い出ました。この件はすぐに聞き届けられ、義盛は喜んだそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)4月2日条 \ 北条義時が荏柄(えがら)社前の和田胤長の屋敷地を拝領しました。和田義盛は不満を抱いたものの、再び事情を訴えることはできなかったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 和田義盛の館に軍兵が競って集まりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 三浦義村・胤義兄弟は、当初は和田義盛にくみして御所の北門を固めることを誓い、起請文も書いていましたが、のちにそれを反故(ほご)にしました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 三浦義村・胤義兄弟は「先祖より源氏の恩恵を受けてきた。親戚に従って主君に戦いを挑めば、天罰は免れない」と後悔し、北条義時の屋敷に参上して和田義盛が挙兵したことを伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 和田義盛に謀反の疑いがありましたが、けさ起こるとは思わず、北条義時らはゆっくりと構えていたため、御所では特に警固の備えを行っていませんでした。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 北条義時から報告を受けた政子と御台所(千世)が、御所を離れて鶴岡八幡宮に移りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 申の剋(さるのこく/午後3時~5時)に和田義盛が一味を率いて、御所を急襲しました。味方したのは、義盛の三男・義秀、四男・義直、五男・義重ら150名。義盛は軍勢を三手に分け、幕府の南門と、北条義時の屋敷、西北の門を囲みました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 御所の西南にある政所の前で、御家人たちが和田義盛の一党を相手に防戦。三浦義村もこれに加わりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に和田義盛の一党がついに幕府の四面を包囲。旗をなびかせて矢を飛ばしました。これに対し、北条泰時、朝時らが防戦し、軍略を尽くしました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 朝比奈義秀が惣門を破って御所の南庭に乱入。立て籠もっていた御家人たちを攻め立てると、御所に火を放ちました。このため、御所内の建物は一宇残らず焼け落ちたようです。 #鎌倉殿の13人