#吾妻鏡 建久元年(1190)10月3日条 \ 源頼朝が京へ向けて出発しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久元年(1190)11月7日条 \ 源頼朝が大軍を引き連れて入京しました。先陣は畠山重忠、後陣は千葉常胤が務めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久元年(1190)11月9日条 \ 源頼朝が院御所と内裏に参上しました。後白河法皇に拝謁した頼朝は二人だけで長時間にわたり会談し、治世についても意見を交わしたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久元年(1190)11月9日条 \ 日没になり後白河法皇の御所から退出した頼朝は、続いて閑院内裏に参上して後鳥羽天皇に拝謁。そのあと閑院内裏内の鬼の間にて、摂政・九条兼実と初対面しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久3年(1192)3月16日条 \ 京より鎌倉に飛脚が到着し、去る13日の寅の剋(とらのこく/午前3時~5時)に後白河法皇が六条殿で亡くなったと伝えられました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久3年(1192)7月26日条 \ 勅使が鎌倉に到着。源頼朝が征夷大将軍に任じられました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久3年(1192)8月9日条 \ 巳の剋(みのこく/午前9時~午前11時)に政子が男児(のちの源実朝)を出産。乳母には、政子の妹・実衣が選ばれました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久3年(1192)9月25日条 \ 姫の前と称する幕府の官女(比奈)が、今夜初めて義時の邸宅に渡りました。比奈は源頼朝のお気に入りで、とても美しい女性だったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月8日条 \ 富士野・藍沢での夏狩りを視察するため、源頼朝が駿河国に赴きました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月16日条 \ 富士野での巻狩りの間に、源頼朝の嫡男・万寿(のちの源頼家)が初めてシカを射止めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月16日条 \ 万寿がシカを射止めると、源頼朝はその日の狩りをやめました。そしてその晩、矢口祝いを行い、黒・赤・白の三色の餅を山神に供えて狩猟の成功を祝いました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月22日条 \ 万寿がシカを射止めたと報告を受けた政子ですが、特に感心することはなく、「万寿は武将の嫡子なので、シカを獲たところで大したことはない」と答えたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月28日条 \ 鼓を打つかのような激しい雷雨の中、子の剋(ねのこく/午後11時~午前1時)に亡き伊東祐親の孫である曽我十郎・五郎兄弟が、富士野の仮宿の襲撃を実行。この襲撃により、工藤祐経が殺害されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月28日条 \ 兄・曽我十郎は、襲撃の中で仁田忠常に立ち向かい、討たれました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月29日条 \ 取り調べののち、弟・曽我五郎が斬首されました。事情を問う源頼朝に対して五郎は、工藤祐経は亡き父・河津祐泰の敵(かたき)であり、幼少のころより復讐(ふくしゅう)の思いを片時も忘れたことがなく、敵討ちを果たしたと答えたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)8月2日条 \ 源範頼が起請文を書き、兄・頼朝へ献上しました。これは範頼が謀反を企てていると頼朝が聞き及び、尋ねられたためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)8月2日条 \ 大江広元を介して弟・範頼の起請文を確認した源頼朝は、「名に源の字を載せている。これは一族であるという主張であり、忠義から外れた過分な考えであるため、この起請文は偽りだ」と断じたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)8月17日条 \ 源範頼が伊豆に下向しました。帰参の時期は定められておらず、配流であったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)8月24日条 \ 岡崎義実が出家しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久5年(1194)8月14日条 \ 源頼朝の甥(おい)にあたる一条高能が京から下向し、鎌倉に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久5年(1194)8月18日条 \ 大姫が一条高能に嫁ぐように内々に計っていた政子ですが、大姫は決して承諾することはなく、そのようなことになれば入水(じゅすい)すると語ったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久6年(1195)2月14日条 \ 源頼朝は、御台所の政子や子供である大姫、頼家と一緒に京へ向けて出発しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久6年(1195)3月4日条 \ 源頼朝が御台所の政子や子供である大姫、頼家らと共に入京しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久6年(1195)3月13日条 \ 東大寺の再建に多額の支援をした源頼朝。東大寺の大仏を鋳造した宋(現在の中国)の技匠・陳和卿に会うことを望みましたが、陳和卿は「多くの人命を絶ち、罪業の深い頼朝に会うことはできない」と固辞したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久6年(1195)3月29日条 \ 源頼朝の招きに応じて六波羅の御亭を訪れた丹後局が、政子、大姫と対面しました。頼朝は丹後局に砂金200両をはじめとした贈り物をしたようです。 #鎌倉殿の13人