#吾妻鏡 元久2年(1205)6月23日条 \ 稲毛重成が誅殺されました。このたびの合戦は、親族の縁を翻(ひるがえ)した“重成の謀略”が発端でした。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月23日条 \ 鎌倉に帰還した義時は、父・北条時政に「畠山重忠の弟や親類のほとんどは他所(よそ)におり、戦場に赴いたのはわずか百余人でした。謀反を企てたという疑いは偽りであり、とてもあわれです。悲涙を抑えることができませんでした」と語りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月22日条 \ 畠山重忠軍の奮戦により、時間が経過してもなかなか勝負がつきませんでした。しかし申の剋(さるのこく/午後3時~5時)も終わろうとするころ、愛甲季隆の放った矢が重忠を射抜き、重忠は戦死。事態は収まりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月22日条 \ 嫡男・重保が誅殺され討伐軍が迫っていると知った畠山重忠は、「梶原景時は館に撤退して途中で殺された。それは命を惜しむようであり、企てがあったようにも思われた。このように推察されては面目がない」と郎党に語り、戦いに身を投じました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月22日条 \ 畠山重忠が鎌倉に参上するというウワサがあったため、道中で誅殺するようにという沙汰(さた)が下されました。討伐軍の大将軍を任されたのは、義時でした。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月22日条 \ 去る19日、畠山重忠が武蔵国男衾郡(現在の埼玉県小川町、および、嵐山町の一部)の館を発(た)ち、鎌倉へと向かいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月22日条 \ 謀反人を誅殺するため、寅の剋(とらのこく/午前3時~5時)に軍兵が由比ヶ浜辺りに向かいました。畠山重保も郎党3人を従えてこれに加わっていましたが、三浦義村らに取り囲まれ、奮戦の末に主従ともに命を落としました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月20日条 \ 畠山重保が武蔵国より鎌倉に到着しました。これは、稲毛重成の招きによるものだったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)4月11日条 \ このところ武蔵国に蟄居(ちっきょ)していた稲毛重成が、北条時政の招きに応じ、従者を率いて鎌倉に参上しました。鎌倉内は騒がしく、近国の御家人たちが群参して武具が整えられているというウワサがあったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月21日条 \ 畠山重忠・重保父子を誅殺しようとする父・北条時政に対し、義時と時房は「重忠は治承4年(1180)以来、忠節を尽くしてきた。数々の勲功をないがしろにし、軽率に誅殺すれば後悔することになるでしょう」と諌(いさ)めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月21日条 \ 牧の方(りく)が平賀朝雅の讒言(ざんげん)を受けて立腹。畠山重忠・重保父子を誅殺しようと、内々に謀議が行われました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)12月10日条 \ 源実朝の御台所(千世)が鎌倉に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)11月20日条 \ 京から帰った北条政範の召し使いが、去る4日に平賀朝雅の酒宴があり、その際に朝雅と畠山重保との口論があったと伝えました。同席者がなだめたため、その日は何事もなく散会したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)11月13日条 \ 去る5日に北条政範が京で死去したことを伝える飛脚が鎌倉に到着しました。最愛の息子の死を知らされた父・北条時政と母・牧の方(りく)の悲嘆は、比べようもないほどであったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)11月5日条 \ 子の剋(ねのこく/午後11時~翌午前1時)に北条政範が亡くなりました。享年16。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)10月14日条 \ 源実朝の御台所として下向する前大納言・坊門信清の息女(千世)を迎えるため、北条政範、結城朝光、畠山重保らが京へ向かいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)7月26日条 \ 安芸国壬生庄(現在の広島県北広島町壬生)の地頭に関する裁定が、源実朝の御前で行われました。実朝が直(じか)に政道を裁断するのは、これが初めてです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)7月19日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に伊豆からの飛脚が鎌倉へ到着。「昨日18日に源頼家が修善寺で亡くなられた」と報告したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁4年(1204)1月12日条 \ 源実朝の読書始(どくしょはじめ)が行われました。講義を行ったのは源仲章。才知の誉(ほま)れはないが、好んで書籍を集めており、百家九流(多方面の学問)に通じていると評されています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)11月10日条 \ 三浦義村が伊豆より帰参し、源頼家の閑居での様子を詳しく伝えました。これを聞いた政子は、たいそう悲しんだそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)11月6日条 \ 三浦義村が使者として送られ、書状に対する審議の結果が源頼家へ伝えられました。頼家には、今後は書状を送ることも控えるようにと忠告したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)11月6日条 \ 伊豆の源頼家から「退屈なので近習をよこしてほしい」「安達景盛を私に引き渡し、処分させてほしい」といった内容の書状が届きました。審議の結果、要求はいずれも妥当ではないと判断されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)10月19日条 \ 源実朝への代替わりに伴い、平賀朝雅、中原親能から京・畿内の御家人たちに対し、起請文を進上するように命が下されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)10月9日条 \ その後、源実朝は初めて鎧(よろい)を着て、また、馬に乗りました。この際、北条時政が実朝の補助を行いました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)10月9日条 \ 源実朝の政務開始の儀式である政所始(まんどころはじめ)が行われました。別当である北条時政、大江広元らが着座し、時政が実朝の御前に吉書(吉日良辰を選んで慶賀のしるしに発給する文書)を持参しました。 #鎌倉殿の13人