#吾妻鏡 建暦3年(1213)2月16日条 \ 事件の発端は、信濃の泉親平(親衡)が一昨年より謀反を企て、和田胤長らに声をかけていたことでした。源頼家の遺児(のちの栄実)を将軍とし、北条義時を殺害しようとしたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)2月16日条 \ 僧の白状により、和田義直、和田義重、和田胤長ら謀反を企てる者たちがあちこちで捕らえられました。首謀者は百三十余人、一味は二百人に及ぶようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)2月15日条 \ 謀反を企てる者たちの使者となっていた僧が捕らえられ、北条義時のもとへ突き出されました。義時はすぐに事情を源実朝に報告すると、大江広元らと評議を行いました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦2年(1212)7月8日条 \ 源仲章の使者が京から鎌倉へ到着しました。先月27日に、焼失した閑院内裏(かんいんだいり)再建の事始めが行われたそうです。 #鎌倉殿の13人
治承4年(1180)10月21日、平家との戦いの陣に #源頼朝 に会いたいと若者が訪ねてきました。奥州に逃れた弟 #源義経 でした。二人は過ぎた日々を語り合い、涙を流した、と #吾妻鏡 にあります。 #鎌倉殿の13人 #大河ドラマ館 では、義経の甲冑展示は終了しましたが、等身大パネルは健在です!#菅田将暉
#吾妻鏡 建暦2年(1212)5月7日条 \ 北条朝時が御台所(千世)に仕える女房との間で問題を起こし、源実朝からお怒りを受けました。父・義時から勘当された朝時は、駿河国富士郡へ下向しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦元年(1211)9月22日条 \ 僧として仏の定めた戒律を受けるために、公暁が鶴岡八幡宮の別当・定暁に連れられて上洛しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦元年(1211)9月15日条 \ 源頼家の息子・善哉が、鶴岡八幡宮の別当・定暁のもとで出家しました。法名は公暁です。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)11月27日条 \ 和田義盛は、上総介(上総国の国司)を望んでいたことについて、内々の取り計らいがあり、しばし結果を待つようにと言われ、手をたたいて喜んだそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)11月20日条 \ 諸国の守護人の怠慢について、国衙(こくが)の役人から訴えがありました。このため幕府で議論が行われ、守護を終身の職とせず、交代制にして、任期を決めて職務にあたらせる案などが検討されました。しかし、決定には至りませんでした。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)11月14日条 \ 北条義時が、長年仕えてきた自身の郎党の中で、手柄のあるものを御家人に準じた扱いにしてほしいと望みました。しかし源実朝は、「それを許せば、子孫の代になって直参を企てるなど、のちに災いを招く」と厳しく答え、義時の要望を退けました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)11月4日条 \ 御所の庭で、“切的(きりまと)の会”(小さな的を矢で射抜く競技)が行われました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)8月13日条 \ 内藤知親が京から鎌倉へ戻り、藤原定家に送った和歌も添削が加えられて戻ってきました。また、源実朝の求めに応じて藤原定家が著した歌論書が献上されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)7月5日条 \ 源実朝が夢のお告げにより、ニ十首の和歌を住吉社に奉納しました。使者となったのは、藤原定家の門弟・内藤知親。この機会に実朝は、建永元年(1206)に習い始めたばかりのころの和歌三十首を選び、添削を受けるために定家へ送りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)5月12日条 \ 源実朝は、和田義盛の上総介への推挙について政子に相談しました。しかし、「頼朝様の代に、侍の受領(ずりょう)は停止すると決められました。新しい例を作るのであれば、私が口を挟むことではない」と政子が答え、推挙できなかったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)5月12日条 \ 和田義盛は「上総介(上総国の国司)に推挙してほしい」と、源実朝へ内々に頼んでいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)3月1日条 \ 高野山大塔料所である備後国大田荘の年貢の未納について、寺家から訴えがありました。同地の地頭は、三善康信。審議が行われましたが、高野山の僧と康信の代官との間で口論となり、源実朝がしばらく裁決を待つように命じました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 \ <承元2年(1208)2月10日条> 源実朝が疱瘡(ほうそう)にかかりました。とても容体が悪いようです。 <承元2年(1208)2月29日条> 源実朝が回復し、沐浴(もくよく)を行いました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)閏7月26日条 \ 襲いかかる在京御家人を相手にしばらく戦った平賀朝雅ですが、力及ばず、誅殺されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)閏7月20日条 \ 義時、大江広元、三善康信らが審議を行い、平賀朝雅を誅殺することを決断。在京御家人らに命じるため、使者を京へ送りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)閏7月20日条 \ 辰の剋(たつのこく/午前7時~9時)に北条時政が伊豆国北条に下向しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)閏7月19日条 \ 丑の剋(うしのこく/午前1時~3時)に北条時政が出家しました。同時に出家した者は、数えきれないほどであったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)閏7月19日条 \ 牧の方(りく)が悪だくみを考え、平賀朝雅を鎌倉殿にして現在の将軍家(源実朝)を滅ぼそうとしているとのウワサが鎌倉に流れました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)7月8日条 \ 畠山重忠にくみしたものたちの所領が、勲功のあった者に与えられました。恩賞の沙汰を行ったのは政子。源実朝がまだ幼いため、このような差配となったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月23日条 \ 鎌倉へ向かう途中で不慮の死を遂げた畠山重忠。彼の死を悲嘆しない者はいなかったそうです。 #鎌倉殿の13人