#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月7日条 \ 和田義盛との合戦で勲功のあった御家人たちへ、恩賞が与えられました。 ・北条義時 … 相模国山内庄 ・北条泰時 … 陸奥国遠田郡 ・北条時房 … 上総国飯富庄 ・三浦義村 … 陸奥国名取郡 ・三浦胤義 … 上総国伊北郡 ほか #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月5日条 \ 謀反を起こした和田義盛の後任として、北条義時が侍所別当に就きました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月4日条 \ 片瀬川の川辺に和田義盛ら謀反人の首がさらされました。その数は234だといわれています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月3日条 \ 和田義盛がついに討ち取られました。息子・義直を討ち取られたと知り、嘆き悲しんで迷走していたところを討ち取られたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月3日条 \ 再び御所を攻めようとした和田義盛ですが、若宮大路は北条泰時、時房の防戦によって突破することができないなど、苦戦をしいられました。この日のお昼になっても激戦が続いていました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月3日条 \ 辰の剋(たつのこく/午前7時~9時)に西相模の御家人である曽我、中村、二宮、河村の一党が和田勢に加わり、陣を取りました。しかし、源実朝の花押が記された御教書(みぎょうしょ)が届けられると、皆が源実朝側に味方しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 大江広元が幕府の文書や記録を守るために、政所へ戻りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 北条泰時らの奮戦の前に兵が少なくなり、矢も足りなくなったため、和田義盛の一党が由比ヶ浜まで退却しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 朝比奈義秀が惣門を破って御所の南庭に乱入。立て籠もっていた御家人たちを攻め立てると、御所に火を放ちました。このため、御所内の建物は一宇残らず焼け落ちたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に和田義盛の一党がついに幕府の四面を包囲。旗をなびかせて矢を飛ばしました。これに対し、北条泰時、朝時らが防戦し、軍略を尽くしました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 御所の西南にある政所の前で、御家人たちが和田義盛の一党を相手に防戦。三浦義村もこれに加わりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 申の剋(さるのこく/午後3時~5時)に和田義盛が一味を率いて、御所を急襲しました。味方したのは、義盛の三男・義秀、四男・義直、五男・義重ら150名。義盛は軍勢を三手に分け、幕府の南門と、北条義時の屋敷、西北の門を囲みました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 北条義時から報告を受けた政子と御台所(千世)が、御所を離れて鶴岡八幡宮に移りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 和田義盛に謀反の疑いがありましたが、けさ起こるとは思わず、北条義時らはゆっくりと構えていたため、御所では特に警固の備えを行っていませんでした。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 三浦義村・胤義兄弟は「先祖より源氏の恩恵を受けてきた。親戚に従って主君に戦いを挑めば、天罰は免れない」と後悔し、北条義時の屋敷に参上して和田義盛が挙兵したことを伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 三浦義村・胤義兄弟は、当初は和田義盛にくみして御所の北門を固めることを誓い、起請文も書いていましたが、のちにそれを反故(ほご)にしました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 和田義盛の館に軍兵が競って集まりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)4月2日条 \ 北条義時が荏柄(えがら)社前の和田胤長の屋敷地を拝領しました。和田義盛は不満を抱いたものの、再び事情を訴えることはできなかったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月25日条 \ 荏柄(えがら)社前の和田胤長の屋敷地について、和田義盛が女房を通して「源頼朝様の代より、一族の所領が没収された際に他人に与えられたことはない。私に与えてください」と願い出ました。この件はすぐに聞き届けられ、義盛は喜んだそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月21日条 \ 和田胤長の娘・荒鵑(6歳)が、父が遠くに行ってしまったことを悲しむあまり病気となり、ついに亡くなりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月17日条 \ 和田胤長が陸奥国岩瀬郡に配流されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月9日条 \ 和田義盛が胤長の赦免を求めますが、胤長は首謀者のひとりであり、特に策謀をめぐらせていたため許されることはありませんでした。胤長は後ろ手に縛り上げられ、一族が列座する前で連れていかれました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月9日条 \ 和田義盛がきょうも御所に参上。一族九十八人を引き連れて、御所の南庭に列座しました。これは甥(おい)の和田胤長が赦免されるように申請するためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月8日条 \ 和田義盛が御所に参上し、源実朝と対面しました。義盛が謀反人とされた息子・義直、義重の処分のことを愁(うれ)うと、義盛のこれまでの勲功に免じて、二人の罪が許されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)3月2日条 \ 謀反の首謀者である泉親平(親衡)が筋違橋あたりに隠れているとのウワサがあり、捕縛に向かいました。しかし取り逃し、とうとう親平の行方はわからなくなってしまいました。 #鎌倉殿の13人