#吾妻鏡 建仁2年(1202)6月25日条 \ 平知康が北条時連に「時連の『連』の字は銭貨を貫くという意味だろうが、ふさわしくない。早く名前を改めたほうが良い」と助言し、時連は名を改めることを承諾しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁2年(1202)12月19日条 \ 源頼家のお供をしていた平知康が古井戸に落ちました。幸い命は助かったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁2年(1202)8月23日条 \ 頼時が三浦義村の娘(初)と結婚しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁2年(1202)8月2日条 \ 京から鎌倉に使者が到着し、先月7月22日に源頼家が従二位に叙され、征夷大将軍に補任されたと伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁元年(1201)10月6日条 \ 伊豆国北条に下向した頼時が、5日に到着。頼時は8月の台風被害などによる食糧不足と、借りた米の債務に苦しむ百姓たちを憂い、証文を焼き捨てました。また、食事と酒を提供し、一人当たり一斗の米を配布しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁元年(1201)9月22日条 \ たびたび蹴鞠を行う源頼家に疑問を抱き、頼時が共に頼家の近習を務める中野能成に「8月に台風によって鶴岡八幡宮の門が倒壊し、国は飢饉に愁(うれ)えています。このような時に、いまのなされようはどうなのか」と相談しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁元年(1201)9月22日条 \ 北条時連らが集まり、源頼家による蹴鞠(しゅうきく)会がまた行われました。ちなみにこの月は、11日、15日、20日にも蹴鞠が行われています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)5月28日条 \ 源頼家は新熊野社(いまくまのしゃ)の僧が進上してきた境の絵図を確認すると、自ら筆を取って絵図の中央に線を引きました。そして、「所領の広い狭いは運による。今後、所領問題についてはこのように裁断する」と申し付けました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)5月28日条 \ 陸奥国葛岡郡の新熊野社(いまくまのしゃ)の僧が所領の境を巡り争っているため、惣地頭である畠山重忠が裁きを求めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)4月9日条 \ 4月1日に北条時政が遠江守に任じられ、従五位下に叙されました。これを伝える除書(除目の結果を伝える書類)が、9日に届きました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)1月23日条 \ 三浦義澄が亡くなりました。享年74。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)1月20日条 \ 三浦義村ら御家人たちの追撃により、梶原景時・景季親子らが討ち取られました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)1月20日条 \ 梶原景時が子息を伴い、所領である相模国一宮を発(た)ちました。景時は上洛するつもりだとウワサされていたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)11月13日条 \ 梶原景時は自身を訴えた御家人たちの訴状に対して弁明することができず、子息や親類らを率いて相模国一宮に下向しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)11月10日条 \ 梶原景時を訴える訴状を源頼家に渡すことをためらっていた大江広元に対し、和田義盛が「景時を怖れているのか」と一喝。「鎌倉殿に渡すのか、渡さないのか、今はっきりと返答しろ」と迫りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)11月10日条 \ 梶原景時を訴える連署の書状を受け取った大江広元は、頼朝に忠節を尽くした景時が罪に問われるのは不憫(ふびん)であり、和平への道を探るべきだと考え、源頼家に訴状を渡すのをためらっていました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)10月28日条 \ 千葉常胤、三浦義澄、畠山重忠、比企能員らが賛同した梶原景時を糾弾する訴状を、和田義盛と三浦義村が持参し、大江広元に渡しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)10月27日条 \ 梶原景時によって誅殺(ちゅうさつ)の危機にある結城朝光を救うためには、特別な計略がなければ難しいと答えた三浦義村が、景時に不満を持つ御家人たちによって連署の訴状を作り、鎌倉殿に訴えることを提案しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)10月27日条 \ 結城朝光の「忠臣は二君に仕えず」という発言に対し、梶原景時が頼家に対する背信と断じ、御家人たちを引き締めるためにも断罪すべきだと進言しました。このことを阿波局(実衣)が結城朝光に伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)10月25日条 \ 結城朝光が御所内で、「忠臣は二君に仕えずという。私は頼朝様に特にご恩を賜っており、遺言により出家遁世(とんせい)しなかったことを非常に後悔している」と語りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)8月19日条 \ 訴えられた源頼家は、安達景盛の誅殺(ちゅうさつ)を命じました。しかし、政子が景盛をかばい、「景盛は信頼が厚く、頼朝が特に情けをかけていた。誅殺すれば必ず後悔するでしょう」と頼家を諭しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)8月19日条 \ 妾(めかけ)のことについて、安達景盛が源頼家を恨んでいるという訴えがありました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)7月26日条 \ 源頼家が安達景盛の妾(めかけ)である美女を御所に召し、今後は御所に住むように指示しました。これは、頼家が彼女を非常に寵愛(ちょうあい)していたためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)6月30日条 \ 三幡の乳母夫(めのと)である中原親能が、彼女の死を悼み出家しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)6月30日条 \ 源頼朝の娘・三幡が亡くなりました。母・政子は悲嘆し、周囲の人間の悲しみは記しきれないほどだったそうです。 #鎌倉殿の13人