#吾妻鏡 承久元年(1219)7月25日条 \ 源頼茂の一党は、合戦の際に内裏の区画内の建物に火を放ちました。これにより、仁寿殿(じじゅうでん)の観音像、応神天皇の御輿(みこし)に加え、大嘗会(だいじょうえ)や即位式の際に使用する蔵人方の装束や霊物などが焼失しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久元年(1219)7月25日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に伊賀光季(いがみつすえ)の使者が京から鎌倉に到着し、「去る13日の未の剋(ひつじのこく/午後1時~3時)に、後鳥羽上皇の考えに背いた源頼茂を誅殺した」と報告しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久元年(1219)7月19日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に政所始(まんどころはじめ)が行われました。三寅が幼いうちは、政子が裁断することになったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久元年(1219)7月19日条 \ 左大臣・九条道家の賢息・三寅が関東に下向しました。これは政子が亡き源頼朝との深い縁を重んじて京から新たな鎌倉殿として迎えようと朝廷に申請していたもので、先月3日に宣下がありました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)3月15日条 \ 政子の使者として、北条時房が千騎を従えて上洛しました。これは、後鳥羽上皇の院宣について回答し、親王の下向について催促するためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)3月12日条 \ 北条義時、北条時房、北条泰時、大江広元が政子の屋敷に集まり、後鳥羽上皇の院宣について、「『追って回答します』と返答したため、速やかに決定しなければ後鳥羽上皇の機嫌を損ねることになるかもしれない」と審議があったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)3月9日条 \ 後鳥羽上皇の使者が政子の屋敷に参上し、源実朝の死について後鳥羽上皇が特に嘆き悲しんでいると伝えました。またその後、北条義時と面会し、摂津国長江庄と倉橋庄の地頭職を停止するように命じた後鳥羽上皇の院宣を届けました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)閏2月12日条 \ 京から鎌倉に使者が到着し、「親王の下向について今月1日に審議があり、後鳥羽上皇が『(雅成親王と頼仁親王の)二人のうち一人を必ず下向させよう。ただし、今すぐにというわけにはいかない』と同4日に命じられた」と報告しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)2月23日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に駿河国から鎌倉に飛脚が到着し、「阿野時元が自害した」と報告しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)2月22日条 \ 派遣された御家人たちが駿河国安野郡に到着し、阿野時元とその一党を討ち取りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)2月15日条 \ 申の剋(さるのこく/午後3時~5時)に駿河国から鎌倉に飛脚が到着し、「阿野時元が去る11日に多勢を率いて、奥深い山に城郭を構えました。これは宣旨を賜って東国を支配しようと企てたものです」と報告しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)2月9日条 \ 京から使者が鎌倉に帰ってきました。去る2日に入京し、源実朝の死去を朝廷に申し上げたところ、洛中が驚き慌(あわ)て、武士が武装して行動を起こそうとしました。しかし、後鳥羽上皇から禁じられたため、鎮(しず)まったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)2月8日条 \ 北条義時が大倉薬師堂を参拝しました。先月27日に源実朝に供奉していた際、白い犬を見た後に気分が悪くなり御剣役を源仲章に譲って退出しましたが、公暁が御剣役を襲い仲章が首を斬られました。このとき戌(いぬ)神は堂の中にいなかったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ きょうの不祥事については、前々から異変を示すような出来事があったようです。そのひとつとして、源実朝が縁起の良くない和歌を詠んでいました。 出(いで)ていなば 主(ぬし)なき宿(やど)と なりぬとも 軒端(のきば)の梅よ 春を忘るな #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ 三浦義村が勇敢な者を討手に指名して公暁を討ち取ると、その首を北条義時のもとへ持参しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ 源実朝を殺害した公暁は、追手をまいて鶴岡八幡宮から離れると、三浦義村に使者を送り、「自分こそが鎌倉殿にふさわしい。速やかに手はずを整えるように」と指示しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ 源実朝を殺害した公暁は、「別当の阿闍梨公暁が、父(源頼家)の敵を討った」と名乗りを上げたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ 夜になって神拝の儀式が終わり、しばらくして退出したところを、鶴岡八幡宮別当の阿闍梨(あじゃり)公暁が石段の近くに隙を見て近づき、剣を取って源実朝を殺害しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ 源実朝が鶴岡八幡宮の楼門に入った際に、供奉(ぐぶ)していた北条義時は急に気分が悪くなり、御剣(ぎょけん)役を源仲章に譲って退出しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ 夜になって雪が降り、2尺(およそ60cm)余り積もりました。本日、源実朝が右大臣の拝賀のために、鶴岡八幡宮に参りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)12月20日条 \ 去る6日に源実朝が右大臣に任じられました。そこで本日、政所始(はじめ)が行われました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)7月9日条 \ 北条義時が大倉郷の南の山裾に寺院を建立するように命じました。これは昨日、夢の中に薬師十二神将のうちの戌(いぬ)の神が現れ、「今年の参拝は何事もなかったが、来年の拝賀の日は源実朝の供をしないほうがよい」と告げたためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)7月8日条 \ 左大将家の直衣始(のうしはじめ)に際し、随兵に選ばれた三浦義村と長江明義とが互いに並び位置を譲り合い、出発が遅れていました。事情を知った源実朝は、高齢の明義に「左に侯じて子孫の名誉とせよ」と命じ、この場をおさめました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)7月8日条 \ 左大将家の直衣始(のうしはじめ)が、鶴岡八幡宮で執り行われました。左大将となった源実朝が、初めて直衣をまとって参拝する儀式です。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)5月5日条 \ 昨日鎌倉へ戻った北条時房が御所へ参上し、「先月14日に初めて朝廷の鞠庭(まりにわ)に参りました。15日、16日以後も引き続き参ると、蹴鞠(しゅうきく)の道をよく心得ていると後鳥羽上皇が何度も感心しておられました」と源実朝に報告しました。 #鎌倉殿の13人