#吾妻鏡 治承4年(1180)10月6日条 \ 源頼朝が率いる一党が相模国へ到着。畠山重忠が先陣を務めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月4日条 \ 畠山重忠が源頼朝のもとへ参上しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)9月15日条 \ 源頼朝の使者として、北条時政が甲斐国へ到着。頼朝から命じられた趣旨を武田信義に伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)9月19日条 \ 2万騎を率いて源頼朝のもとへ合流した上総広常。しかし、頼朝から遅参を叱責されます。広常はこの頼朝の姿に感銘を受け、従うことを決めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)9月17日条 \ 千葉常胤が一族を引き連れて源頼朝のもとへ合流。頼朝は常胤を座右に招き、「これからは父のように遇したい」と語りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)9月4日条 \ 源頼朝は、和田義盛を上総広常のところへ、安達盛長を千葉常胤に遣わし、両者に参上するように命じました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)9月3日条 \ 源頼朝らが民家に宿泊していたところ、平家方の安房国の豪族・長狭常伴が襲撃を計画。三浦義澄らがこれを迎え討ちました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)9月2日条 \ 夫・源頼朝の安否を心配し、涙にくれていた政子。9月2日の申の刻(さるのこく/午後3時~5時)に使者が到着し、頼朝が船に乗るまでの状況の報告を受けました。この時、政子は悲しみと喜びが入り混じっていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月29日条 \ 8月28日に土肥の真名鶴崎(現在の真鶴岬)から船に乗った源頼朝は、翌29日に安房国猟島(現在の千葉県鋸南町竜島)に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月24日条 \ 源頼朝の敗戦を知り、居城へ引き返す三浦党。しかしその途中、由井浦(現在の由比ヶ浜)で畠山重忠と遭遇し、戦いとなりました。郎党50余りを討ち取られた重忠が退いたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月24日条 \ 源頼朝の跡を追い、峰や谷を探し回る大庭景親率いる平家方。そんな中、梶原景時が頼朝を見つけますが、思うところがあり、痕跡はないと偽ってその場を立ち去りました。 #鎌倉殿の13人
#鎌倉殿の13人』の原作が #吾妻鏡(三谷氏談)とすると、吾妻鏡を愛読し写本を収集&増補した上に影響受けて幕府開いたのが家康なので、来年の『#どうする家康』は鎌倉殿沼にハマりコレクションを極めたファンが自らの物語を描き始めるドラマという解釈ができ、今年来年は長編2部作として楽しめるはず。
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月24日条 \ 再起を図るため、箱根湯坂を経て甲斐へと向かう北条時政・義時父子。一方、宗時は早河(現在の神奈川県小田原市)あたりで伊東祐親の軍勢に囲まれ、討ち取られました。また、工藤茂光も亡くなりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月24日条 \ 大庭景親率いる平家方に追い詰められた源頼朝は、髻(もとどり)の中から正観音像を取り出し、巌窟(がんくつ)に安置しました。理由を問う土肥実平に頼朝は、「自分が討たれた際にこの本尊を見れば、後々まで非難されるだろう」と答えています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月23日条 \ 三浦党が大庭景親の一族の館に火を放ちました。これを知った景親は軍議を行い、黄昏時(たそがれどき)ではあるが三浦党が合流する前に敵をたたくことを決断。石橋山の頼朝の陣に襲いかかりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月20日条 \ 源頼朝の一党が相模に向けて出陣しました。ちなみに、以仁王の令旨(りょうじ)を御旗の横上に付けていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月19日条 \ 世情が落ち着くまでの間、身の安全を図るため、政子らが伊豆山権現の文陽房覚淵のもとへ向かいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月19日条 \ 源頼朝は、山木兼隆の縁者である中原知親を土地の人々を悩ませていたと断じ、知親の所領を取り上げました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月17日条 \ 兵を送り出した源頼朝は館の縁側に出て、放たれた火により敵陣から煙が上がるのを待っていました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月17日条 \ 堤館に到着した源頼朝の郎党たち。味方が館の後ろに回り込むと、佐々木秀義の次男・経高が前庭へと進み、矢を放ちました。「是(これ)、源家(げんけ)の平氏を征する最前の一箭也(いっせんなり)」と記されています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月17日条 \ 祭りでにぎわう牛鍬大路(うしくわおおじ)を避け、蛭嶋(ひるがしま)通りを進むことを進言する北条時政。これに対し、源頼朝は「大事を始めるのに裏道を使うことはできない」と却下し、合戦ではまず火を放つように命じました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月17日条 \ 佐々木定綱・経高・盛綱・高綱の兄弟4人が未の剋(ひつじのこく/午後1時~3時)に北条に到着。源頼朝は感動の涙を浮かべながら「お前たちが遅れたから、けさ合戦することができなかった」と声をかけました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月6日条 \ 源頼朝は土肥実平、岡崎義実らを一人ずつ人気のない部屋に呼び、「今まで口に出して言わなかったが、お前だけが頼りだ!」と丁寧に声をかけました。ちなみに、工藤茂光、佐々木盛綱も頼朝から声をかけられています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月6日条 \ 源頼朝は占いを行わせ、山木兼隆攻めの日時を「17日寅卯の剋(とらうのこく/午前3時~7時)」に決めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)7月10日条 \ 山内首藤経俊に合流を呼びかけるため、使者として向かった安達盛長ですが、「呼びかけに応じないばかりか、さんざん悪口を言われた」と報告しています。 #鎌倉殿の13人