#吾妻鏡 寿永元年(1182)8月12日条 \ 政子の出産にあたり、貴人の出産や病気の際に邪気をはらうために蟇目(ひきめ)を射る引目役は、上総広常が務めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)8月12日条 \ 政子が男児(のちの源頼家)を出産しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)7月12日条 \ 源頼朝の妻・政子が産気づいたため、比企谷殿(ひきがやつどの/比企能員の館)に移りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 養和2年(1182)2月14日条 \ 政子が懐妊し、源頼朝の嫡男誕生の期待が膨らむ中、三浦義澄に預けられていた伊東祐親が自害しました。御所にいた義澄は走って館に戻りましたが、その時にはすでに死体は片付けられていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承5年(1181)3月10日条 \ 源行家と義円が墨俣川に陣を張り、平清盛の五男・重衡率いる平家軍と対峙(たいじ)しました。しかし、平家軍の前に敗れ、義円は討ち取られました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承5年(1181)閏2月4日条 \ 平清盛が亡くなりました。自らの死に際し清盛は、葬儀や仏事をどのように行うのかだけではなく、子孫らはひたすら東国を帰服させる計略を立てて実行せよ、と遺言を残したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承5年(1181)1月11日条 \ 梶原景時が初めて源頼朝の御前に参上しました。頼朝は景時のことを非常に気に入ったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)12月28日条 \ 平清盛の五男・重衡が南都を焼き払い、東大寺、興福寺の堂塔をはじめ、仏像や経論が灰となりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)12月12日条 \ 源頼朝が大倉御所に入ると、御家人たちが侍所に参上。頼朝を鎌倉の主(あるじ)と認め、主従の契りを交わしました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)12月12日条 \ 鎌倉に源頼朝が暮らす新たな御所(大倉御所)が完成しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)12月11日条 \ 平清盛が五男・重衡を園城寺に派遣し、寺の衆徒(しゅうと)と戦わせました。これは、以仁王の乱の際に園城寺の僧侶が以仁王にくみし、平家と敵対したからです。翌12日、園城寺は焼失しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)11月17日条 \ 和田義盛が侍所別当に補任されました。これは、8月の石橋山の戦いのあと安房国へ向かった際に義盛がこの職を望み、許諾されていたためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)11月4日条 \ 常陸に到着した源頼朝は、佐竹氏の考えを確かめるため、上総広常を佐竹義政のもとへ遣わしました。すると広常は、義政が誘いに乗り一人になったところで誅殺(ちゅうさつ)しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月27日条 \ 平家に通じている常陸の佐竹氏を追討するため、頼朝が出陣しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月26日条 \ 大庭景親の首が討たれ、片瀬川あたりにさらされました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月23日条 \ 平家方として源頼朝を追い詰めた大庭景親と山内首藤経俊が捕らわれの身となり、連行されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月21日条 \ 兄・頼朝に会いたいと、源義経が頼朝の陣へやって来ました。頼朝と義経は互いの昔を語り合い、懐かしさに涙を流しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月21日条 \ 退却する平維盛率いる平家軍に追い打ちをかけ、上洛を目指す源頼朝。しかし、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らに「まずは東国を平定してから」といさめられ、追撃を断念しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月20日条 \ 夜半ごろに武田信義が計略を企て、平維盛の陣の背後を襲おうとしました。しかし、富士沼に集まっていた水鳥の一群が一斉に飛び立ったため、羽音に驚いた平家軍は慌て驚き、兵を引きました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月20日条 \ 平維盛率いる平家の追討軍が、富士川の西岸に陣を張りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月19日条 \ 源頼朝に敗れ、捕らえられた伊東祐親。身内からの嘆願により誅殺(ちゅうさつ)は免れ、罪名が決まるまで三浦義澄に預けられることになりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月18日条 \ 源頼朝が駿河国の黄瀬河に到着。武田信義と合流し、対面しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月16日条 \ 平維盛率いる平家の追討軍を迎え討つため、源頼朝が駿河国に向けて出陣しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月11日条 \ 源頼朝の妻・政子が鎌倉に入りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月7日条 \ 父・義朝の旧跡である亀谷には、義朝の没後を弔うため、岡崎義実が寺院を建立していました。このため頼朝は、この地に新たな館を建てることはやめました。 #鎌倉殿の13人