#吾妻鏡 正治元年(1199)11月13日条 \ 梶原景時は自身を訴えた御家人たちの訴状に対して弁明することができず、子息や親類らを率いて相模国一宮に下向しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)6月30日条 \ 源頼朝の娘・三幡が亡くなりました。母・政子は悲嘆し、周囲の人間の悲しみは記しきれないほどだったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月20日条 \ 畠山重保が武蔵国より鎌倉に到着しました。これは、稲毛重成の招きによるものだったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)1月20日条 \ 梶原景時が子息を伴い、所領である相模国一宮を発(た)ちました。景時は上洛するつもりだとウワサされていたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)11月10日条 \ 梶原景時を訴える訴状を源頼家に渡すことをためらっていた大江広元に対し、和田義盛が「景時を怖れているのか」と一喝。「鎌倉殿に渡すのか、渡さないのか、今はっきりと返答しろ」と迫りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月26日条 \ 大庭景親の首が討たれ、片瀬川あたりにさらされました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)2月22日条 \ 派遣された御家人たちが駿河国安野郡に到着し、阿野時元とその一党を討ち取りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月24日条 \ 大庭景親率いる平家方に追い詰められた源頼朝は、髻(もとどり)の中から正観音像を取り出し、巌窟(がんくつ)に安置しました。理由を問う土肥実平に頼朝は、「自分が討たれた際にこの本尊を見れば、後々まで非難されるだろう」と答えています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)6月16日条 \ 武田信義の嫡男・一条忠頼が野望を抱いているとのうわさを察した源頼朝が、忠頼を誅殺することを決断。夕方になって忠頼を召し出し、御所の中で誅殺しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久3年(1192)7月26日条 \ 勅使が鎌倉に到着。源頼朝が征夷大将軍に任じられました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月15日条 \ 去る7日、源頼朝の息子・千幡(のちの源実朝)に対し、従五位下の位記と征夷大将軍の宣旨が下されて、その文書が鎌倉に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)6月27日条 \ 都で大番役を務めていた三浦義澄が、相模の所領に戻る途中に北条を訪れました。ちなみに、しばらくの間、密談をしたようですが、その内容は不明です。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)11月10日条 \ 政子は、父・北条時政の後妻・牧の方(りく)から、夫・源頼朝が寵愛(ちょうあい)する亀のことを聞かされ、激怒したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月21日条 \ 退却する平維盛率いる平家軍に追い打ちをかけ、上洛を目指す源頼朝。しかし、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らに「まずは東国を平定してから」といさめられ、追撃を断念しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)10月14日条 \ 源実朝の御台所として下向する前大納言・坊門信清の息女(千世)を迎えるため、北条政範、結城朝光、畠山重保らが京へ向かいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久元年(1219)7月25日条 \ 源頼茂の一党は、合戦の際に内裏の区画内の建物に火を放ちました。これにより、仁寿殿(じじゅうでん)の観音像、応神天皇の御輿(みこし)に加え、大嘗会(だいじょうえ)や即位式の際に使用する蔵人方の装束や霊物などが焼失しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月19日条 \ 去る15日の午の剋(うまのこく/午前11時~午後1時)に後鳥羽上皇が官軍を派遣し、伊賀光季を誅殺しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)8月17日条 \ 源範頼が伊豆に下向しました。帰参の時期は定められておらず、配流であったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)11月20日条 \ 京から帰った北条政範の召し使いが、去る4日に平賀朝雅の酒宴があり、その際に朝雅と畠山重保との口論があったと伝えました。同席者がなだめたため、その日は何事もなく散会したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月3日条 \ 再び御所を攻めようとした和田義盛ですが、若宮大路は北条泰時、時房の防戦によって突破することができないなど、苦戦をしいられました。この日のお昼になっても激戦が続いていました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)9月4日条 \ 源頼朝は、和田義盛を上総広常のところへ、安達盛長を千葉常胤に遣わし、両者に参上するように命じました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)3月12日条 \ 北条義時、北条時房、北条泰時、大江広元が政子の屋敷に集まり、後鳥羽上皇の院宣について、「『追って回答します』と返答したため、速やかに決定しなければ後鳥羽上皇の機嫌を損ねることになるかもしれない」と審議があったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 和田義盛に謀反の疑いがありましたが、けさ起こるとは思わず、北条義時らはゆっくりと構えていたため、御所では特に警固の備えを行っていませんでした。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)6月19日条 \ 三善康信の使者が北条へ到着。「以仁王の令旨を受けた源氏はすべて追討せよという命令が出されています。早く奥州へお逃げください」と源頼朝に都の情勢と自身の考えを伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 \ 残念ながら、建久7年(1196)~建久10年(1199)1月までの記事は欠落しています。 そこで、第26回は特別編として、『百練抄』と『猪隈関白記』よりエピソードをご紹介します。 #鎌倉殿の13人