#吾妻鏡 文治2年(1186)3月22日条 \ 静御前に対する尋問が行われました。源義経の居場所は知らないと言い張ったままだったそうです。また、義経の子を身ごもっており、出産後には京へ帰るように指示がありました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)1月20日条 \ 三浦義村ら御家人たちの追撃により、梶原景時・景季親子らが討ち取られました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)4月27日条 \ 以仁王の令旨(りょうじ)が伊豆の北条館に到着。持ってきたのは源行家。源頼朝は正装の水干に着替え、謹んで令旨を開きました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)5月24日条 \ 源頼朝から鎌倉に入ることを許されず、腰越駅(現在の神奈川県鎌倉市腰越付近)でいたずらに日を送っていた義経は、大江広元を通じて頼朝に1通の詫び状を送りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月20日条 \ 夜半ごろに武田信義が計略を企て、平維盛の陣の背後を襲おうとしました。しかし、富士沼に集まっていた水鳥の一群が一斉に飛び立ったため、羽音に驚いた平家軍は慌て驚き、兵を引きました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久元年(1219)7月19日条 \ 左大臣・九条道家の賢息・三寅が関東に下向しました。これは政子が亡き源頼朝との深い縁を重んじて京から新たな鎌倉殿として迎えようと朝廷に申請していたもので、先月3日に宣下がありました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)9月2日条 \ 夫・源頼朝の安否を心配し、涙にくれていた政子。9月2日の申の刻(さるのこく/午後3時~5時)に使者が到着し、頼朝が船に乗るまでの状況の報告を受けました。この時、政子は悲しみと喜びが入り混じっていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)閏7月20日条 \ 義時、大江広元、三善康信らが審議を行い、平賀朝雅を誅殺することを決断。在京御家人らに命じるため、使者を京へ送りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月17日条 \ 祭りでにぎわう牛鍬大路(うしくわおおじ)を避け、蛭嶋(ひるがしま)通りを進むことを進言する北条時政。これに対し、源頼朝は「大事を始めるのに裏道を使うことはできない」と却下し、合戦ではまず火を放つように命じました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)2月9日条 \ 京から使者が鎌倉に帰ってきました。去る2日に入京し、源実朝の死去を朝廷に申し上げたところ、洛中が驚き慌(あわ)て、武士が武装して行動を起こそうとしました。しかし、後鳥羽上皇から禁じられたため、鎮(しず)まったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)閏7月20日条 \ 辰の剋(たつのこく/午前7時~9時)に北条時政が伊豆国北条に下向しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保4年(1216)11月24日条 \ 源実朝が、前世に住んでいた医王山に参拝するために中国へ渡航することを思い付き、陳和卿に唐船を造るように命じました。北条義時と大江広元がしきりに実朝を諫(いさ)めたものの受け入れられず、造船が決定したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)11月12日条 \ 源頼朝は亀の暮らしていた屋敷を破壊した牧宗親を呼び出して詰問。「政子を重んじるのは良いが、命令に従うとしても、なぜ内々に報告してこなかったのか」と逆ギレし、宗親の髻(もとどり)を切り落としてしまいました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月23日条 \ 公卿や殿上人の罪名をはじめ、洛中の事についての取り決めがなされました。大江広元が文治元年(1185)の先例(源頼朝による行家、義経に味方した廷臣の処罰の奏請(そうせい))を考慮して計らい、事書(ことがき)を整えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)11月6日条 \ 伊豆の源頼家から「退屈なので近習をよこしてほしい」「安達景盛を私に引き渡し、処分させてほしい」といった内容の書状が届きました。審議の結果、要求はいずれも妥当ではないと判断されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 \ 残念ながら、建久7年(1196)~建久10年(1199)1月までの記事は欠落しています。 そこで、第25回は特別編として、『鎌倉大日記』と後年の『吾妻鏡』よりエピソードをご紹介します。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久元年(1204)12月10日条 \ 源実朝の御台所(千世)が鎌倉に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)10月28日条 \ 千葉常胤、三浦義澄、畠山重忠、比企能員らが賛同した梶原景時を糾弾する訴状を、和田義盛と三浦義村が持参し、大江広元に渡しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)5月15日条 \ 義経の連絡を受けた源頼朝は、北条時政を使いとして酒匂駅に派遣。時政に平宗盛・清宗父子の身柄を受け取らせ、義経にはしばらく酒匂に逗留し、指示があるまで待つように伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)11月10日条 \ 政子が牧宗親に命じ、源頼朝の愛妾(あいしょう)・亀の暮らしていた屋敷を破壊しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治2年(1200)1月23日条 \ 三浦義澄が亡くなりました。享年74。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久2年(1220)12月1日条 \ 午の剋(うまのこく/午前11時~午後1時)に三寅の着袴(ちゃっこ)の儀が行われました。着袴の儀とは、子どもの成長を祝って初めて袴を身に着ける行事のことです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月24日条 \ 源頼朝の敗戦を知り、居城へ引き返す三浦党。しかしその途中、由井浦(現在の由比ヶ浜)で畠山重忠と遭遇し、戦いとなりました。郎党50余りを討ち取られた重忠が退いたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)4月26日条 \ 藤内光澄が鎌倉に帰参し、入間河原(現在の埼玉県狭山市入間川付近)において、源義高を誅殺したことを報告しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月24日条 \ 寅の剋(とらのこく/午前3時~5時)に事書を託された安東光成が、関東を出て上洛しました。光成は北条義時・泰時父子に近侍していた武士で、京で処置すべきことを義時が自ら光成に指示をしたそうです。 #鎌倉殿の13人