#吾妻鏡 建久6年(1195)3月29日条 \ 源頼朝の招きに応じて六波羅の御亭を訪れた丹後局が、政子、大姫と対面しました。頼朝は丹後局に砂金200両をはじめとした贈り物をしたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治3年(1189)閏4月30日条 \ 陸奥国で藤原泰衡が源義経を襲撃しました。これは一つには勅諚、もう一つには源頼朝の命に従ったためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)3月10日条 \ 源頼家が突然、病にかかりました。14日には病が治り、沐浴(もくよく)を行ったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)8月27日条 \ 頼家の弟・千幡と長男・一幡への分割譲与の話を聞いた比企能員は、ひそかに立腹し、恨みを抱いたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月11日条 \ 源頼朝の妻・政子が鎌倉に入りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月5日条 \ 謀反を起こした和田義盛の後任として、北条義時が侍所別当に就きました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元久2年(1205)6月21日条 \ 牧の方(りく)が平賀朝雅の讒言(ざんげん)を受けて立腹。畠山重忠・重保父子を誅殺しようと、内々に謀議が行われました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久10年(1199)4月12日条 \ 13人の宿老以外が理由もなく、源頼家に訴訟の取り次ぎを行うことは禁止されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)8月19日条 \ 妾(めかけ)のことについて、安達景盛が源頼家を恨んでいるという訴えがありました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)11月25日条 \ この日、北条時政が京へ入り、源義経、源行家の反逆について源頼朝が不満を感じていることを後白河法皇に細かく申し入れました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 \ <承元2年(1208)2月10日条> 源実朝が疱瘡(ほうそう)にかかりました。とても容体が悪いようです。 <承元2年(1208)2月29日条> 源実朝が回復し、沐浴(もくよく)を行いました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)8月13日条 \ 内藤知親が京から鎌倉へ戻り、藤原定家に送った和歌も添削が加えられて戻ってきました。また、源実朝の求めに応じて藤原定家が著した歌論書が献上されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)10月27日条 \ 梶原景時によって誅殺(ちゅうさつ)の危機にある結城朝光を救うためには、特別な計略がなければ難しいと答えた三浦義村が、景時に不満を持つ御家人たちによって連署の訴状を作り、鎌倉殿に訴えることを提案しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久5年(1194)8月18日条 \ 大姫が一条高能に嫁ぐように内々に計っていた政子ですが、大姫は決して承諾することはなく、そのようなことになれば入水(じゅすい)すると語ったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 正治元年(1199)6月30日条 \ 三幡の乳母夫(めのと)である中原親能が、彼女の死を悼み出家しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)6月16日条 \ 一条忠頼の誅殺は、工藤祐経が討手と決められていました。しかし、重大事を前に祐経の顔色が変わり、ほかの御家人の手により忠頼は誅殺されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)7月10日条 \ 山内首藤経俊に合流を呼びかけるため、使者として向かった安達盛長ですが、「呼びかけに応じないばかりか、さんざん悪口を言われた」と報告しています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治2年(1186)3月1日条 \ 源頼朝の命により、義経の愛妾(あいしょう)・静御前が京から鎌倉に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)3月24日条 \ 北条泰時は、源実朝から讃岐守へ叙されることを聞くと、私には過分であるとこれを辞退しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 三浦義村・胤義兄弟は、当初は和田義盛にくみして御所の北門を固めることを誓い、起請文も書いていましたが、のちにそれを反故(ほご)にしました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)8月27日条 \ 源頼家の病状が危険な状態となり、関西三十八カ国の地頭職を弟・千幡(のちの源実朝)に、関東二十八カ国の地頭、および、惣守護職を長男・一幡に譲与する配置が行われました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月6日条 \ 源頼朝は占いを行わせ、山木兼隆攻めの日時を「17日寅卯の剋(とらうのこく/午前3時~7時)」に決めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)7月20日条 \ 源頼家が急に病にかかりました。苦痛はただごとではないほどだったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)8月29日条 \ 去る8月28日に小除目(こじもく)によって多くの源氏が朝恩を賜り、源義経が伊予守の官職を得ました。これは、去る4月に朝廷に行っていた申請が受け入れられた結果のようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)3月15日条 \ 政子の使者として、北条時房が千騎を従えて上洛しました。これは、後鳥羽上皇の院宣について回答し、親王の下向について催促するためです。 #鎌倉殿の13人