#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月29日条 \ 源頼家が伊豆国修善寺に下向しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)10月4日条 \ 畠山重忠が源頼朝のもとへ参上しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月25日条 \ 先月22日からきょうの明け方までに、しかるべき東国武士はすべて上洛し、北条義時のもとでその名簿が書き留められました。軍勢は総勢十九万騎です。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久4年(1193)5月16日条 \ 万寿がシカを射止めると、源頼朝はその日の狩りをやめました。そしてその晩、矢口祝いを行い、黒・赤・白の三色の餅を山神に供えて狩猟の成功を祝いました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永3年(1184)2月7日条 \ 源義経が勇士を率いて、シカやイノシシなどしか通ることができないほどに険しい鵯越(ひよどりごえ)から攻撃。これに平家は慌てふためき、敗走しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)12月20日条 \ 去る6日に源実朝が右大臣に任じられました。そこで本日、政所始(はじめ)が行われました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)7月8日条 \ 左大将家の直衣始(のうしはじめ)に際し、随兵に選ばれた三浦義村と長江明義とが互いに並び位置を譲り合い、出発が遅れていました。事情を知った源実朝は、高齢の明義に「左に侯じて子孫の名誉とせよ」と命じ、この場をおさめました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)9月17日条 \ 千葉常胤が一族を引き連れて源頼朝のもとへ合流。頼朝は常胤を座右に招き、「これからは父のように遇したい」と語りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月23日条 \ 去る16日に北条泰時が送った飛脚が鎌倉に到着しました。合戦が無事に終わり、世の中が静まった経緯が詳しく記された書状が開かれると、皆が大いに喜びました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元歴2年(1185)3月24日条 \ 長門国赤間関の壇ノ浦の海上において、源平両軍が激突。午の剋(うまのこく/午前11時~午後1時)になって平家方の敗戦が濃厚となると、二位尼が宝剣とともに入水(じゅすい)しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)11月14日条 \ 北条義時が、長年仕えてきた自身の郎党の中で、手柄のあるものを御家人に準じた扱いにしてほしいと望みました。しかし源実朝は、「それを許せば、子孫の代になって直参を企てるなど、のちに災いを招く」と厳しく答え、義時の要望を退けました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁元年(1201)9月22日条 \ たびたび蹴鞠を行う源頼家に疑問を抱き、頼時が共に頼家の近習を務める中野能成に「8月に台風によって鶴岡八幡宮の門が倒壊し、国は飢饉に愁(うれ)えています。このような時に、いまのなされようはどうなのか」と相談しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月29日条 \ 北条時房・泰時らが大軍を率いて上洛したことが、後鳥羽上皇のもとに伝わりました。朝廷では皆が驚き、肝を冷やしたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)10月9日条 \ その後、源実朝は初めて鎧(よろい)を着て、また、馬に乗りました。この際、北条時政が実朝の補助を行いました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)4月29日条 \ 政子が熊野山参詣(さんけい)を終えて鎌倉へ戻りました。在京の間に思いがけないことがあり、去る14日、政子が従三位に叙するとの宣下があったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 元暦元年(1184)4月21日条 \ 海野幸氏は源義高と同年で、日夜、義高の座右に仕えて片時も離れることがなかったようです。義高の窮地に際して、幸氏は身代わりとなって寝台に入り、義高を逃がしました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 寿永元年(1182)11月14日条 \ 愛妻・りく(牧の方)の兄である宗親を源頼朝が処罰したことを不満に思った北条時政は、鎌倉を去り、所領である伊豆へと帰っていきました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)9月6日条 \ 河田次郎が主人である藤原泰衡の首を持って源頼朝の陣に参上しました。河田次郎は頼朝から譜代の恩を忘れて主人を討ったことを糾弾され、斬罪に処されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建仁3年(1203)9月5日条 \ 源頼家から北条時政を誅殺するように命じられた和田義盛が、このことを時政に伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)8月17日条 \ 佐々木定綱・経高・盛綱・高綱の兄弟4人が未の剋(ひつじのこく/午後1時~3時)に北条に到着。源頼朝は感動の涙を浮かべながら「お前たちが遅れたから、けさ合戦することができなかった」と声をかけました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保6年(1218)4月29日条 \ 去る15日、後鳥羽上皇から対面しようという仰せが政子にありました。しかし政子は、「片田舎の老尼が天子様に拝謁するのは恐れ多い」とこれを辞退しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建暦3年(1213)5月2日条 \ 三浦義村・胤義兄弟は「先祖より源氏の恩恵を受けてきた。親戚に従って主君に戦いを挑めば、天罰は免れない」と後悔し、北条義時の屋敷に参上して和田義盛が挙兵したことを伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 治承4年(1180)5月26日条 \ 源頼政が平家軍2万と宇治で戦い、敗死。以仁王も最期を遂げました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)1月27日条 \ 源実朝を殺害した公暁は、追手をまいて鶴岡八幡宮から離れると、三浦義村に使者を送り、「自分こそが鎌倉殿にふさわしい。速やかに手はずを整えるように」と指示しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承元3年(1209)11月27日条 \ 和田義盛は、上総介(上総国の国司)を望んでいたことについて、内々の取り計らいがあり、しばし結果を待つようにと言われ、手をたたいて喜んだそうです。 #鎌倉殿の13人