こんばんは、#青天ナビ です。 篤太夫と成一郎がかつての同志と再会、新選組のあの事件、そして…。 まもなくスタートです。 #青天を衝け
#青天ナビ#天狗党の争乱 は、改革派である藤田小四郎たちの「天狗党」と、対立する保守派の「諸生党」の間に起こった水戸藩内の抗争。「天狗党」が筑波山で挙兵したため、武力衝突となりました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 新選組が叫んだ「神妙にしろ、御用改めだ」とは、「おとなしくしろ、容疑があるためここを取り調べる」という意味。今でいう、家宅捜索のようなものです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 川路のセリフにあった #諸大夫(しょだいぶ)とは、武家のランクの一つで、五位の官位に相当する役職のこと。大名と一部の旗本が任ぜられる高い地位でした。 #青天を衝け
#青天ナビ】 篤太夫と決別した #真田範之助。真田はこのあと、天狗党に合流するも、水戸藩内の抗争となったため離脱。その後、攘夷決行を目指して鹿島で挙兵しますが、幕府軍に敗れました。江戸に潜伏中、警備中の新徴組に発見されて斬り合いとなり、命を落としました。 #青天を衝け
#青天ナビ#尽未来際(じんみらいさい)とは仏教用語。未来永劫(みらいえいごう)という意味です。 #青天を衝け
#青天ナビ】 暗殺されてしまった円四郎。この時そばにいた川村恵十郎は、自らを奮い立たせ戦い、その場で、円四郎を斬った水戸藩士の林忠五郎と江幡広光と激しく交戦。その激闘で、顔にあとが残る程の、大きな刀傷を負いました。 #青天を衝け
こんばんは、#青天ナビ です。 1864年の円四郎の暗殺後も、慶喜は国内で起こる争いの対応に追われます。 そして篤太夫は、円四郎の命を果たすべく…. 放送は、まもなくスタートです。 #青天を衝け
#青天ナビ#アーネスト・サトウ は、イギリスの外交官。名前から日本人?と思われがちですが、ドイツ系イギリス人です。来日してからは通訳の仕事をおこない、イギリス公使のパークスを助けるために奔走していました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 円四郎の死から約半月後、篤太夫はその訃報を知ります。「杖とも柱とも頼みにしていた人」の不慮の災難を聞き、「実に失望極まった」と記録に残っています。一方で、命じられた任務を果たさねばと新たな決意をしました。 #青天を衝け
#青天ナビ#禁門の変 は、攘夷派の長州藩と公武合体派の会津藩、薩摩藩を中心とした戦い。長州が京に進軍、御所を守る慶喜や会津、薩摩と激突し、戦いは1日で終わり、長州軍は撤退します。この戦いで、京都市中は大火災となりました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 英・仏・蘭・米の四国連合艦隊と長州藩の戦いは、下関戦争とも呼ばれています。連合軍は、3日間で砲台を破壊して占拠し、長州藩は敗れました。これにより、長州藩は攘夷を諦め、開国、倒幕へと政策を転換していきます。 #青天を衝け
#青天ナビ#武田耕雲斎 は天狗党が挙兵した際、時期尚早と諫(いさ)める立場をとっていました。その後、水戸藩の内部抗争で、天狗党の統制はますます乱れていきます。天狗党を率いる #藤田小四郎 から再三の要請があり、耕雲斎は死ぬ覚悟でその首領となることを決めました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 武田耕雲斎率いる天狗党が京に向かっていることを知った慶喜。水戸藩の人々は元は仲間であり、他藩の手に討ち取らせては藩の面目に関わる。であれば自らが軍を起こそうと追討を決意した、と記録に残っています。 #青天を衝け
こんばんは、#青天ナビ です。 天狗党討伐に向かう慶喜、随行する篤太夫、その行方は…。 そして篤太夫は備中での任務を通じて、一橋家で生きていく“自分の居場所”を見つけていきます。 放送はこのあとすぐです! #青天を衝け
#青天ナビ】 慶喜がやむをえず自らの兵を率いて天狗党(てんぐとう)討伐に向かった際、篤太夫もその一員に加わりました。一橋家の用人・黒川嘉兵衛に従って、秘書のような仕事を担当していたと記録にあります。 #青天を衝け
#青天ナビ】 篤太夫が任命された #小十人並(こじゅうにんなみ)とは、小十人とほぼ同じ役職です。小十人とは、将軍や藩主などの警備や護衛を担当する役職のこと。高貴な人につき従うことを意味する「扈従(こじゅう)」に由来しています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 捕らえられた武田耕雲斎らは、敦賀でニシン蔵に収容されます。雪国である敦賀の真冬に裸同然で、腐ったニシンの臭いが充満する蔵に大勢が押し込められるなど、劣悪な環境で最期の時を過ごしました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 慶喜が禁裏御守衛総督になったにもかかわらず、一橋家が兵をほぼ保有していないことを憂慮した篤太夫は、お金をかけず、領内から農兵を集めることを慶喜に提案します。これまで何度も拝謁を願い出た経験が生きて、願い出てから3日で拝謁を許され、提案は採用されました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 篤太夫は京を出る時、見栄えも大事だということで、長棒の駕籠(かご)に乗ることになりました。将軍に拝謁できるお目見え以上の身分が乗るものだったため、「自分はにわか武士だからさぞ似合わないだろうと思った」と記録にあります。 #青天を衝け
#青天ナビ#阪谷朗廬(さかたに・ろうろ)は漢学者であり教育者。備中で興譲館(こうじょうかん)という学校を設立し、初代館長を務めました。篤太夫が兵集めに苦労していた時に出会い、開国か鎖国かなど、互いの立場を超えて熱く議論を交わし、とても愉快な時間を過ごしたそうです。 #青天を衝け
#青天ナビ#入札払い(いれふだばらい)とは、今でいう競争入札のことです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 篤太夫は一橋領を巡るうちに、「ただ幕府からの支給を待つのではなく、たとえ小さい領内でも収入を増やし、領民が富むような策を考えなくてはならない。それこそ自分が本領発揮できることだ」という考えに至りました。 #青天を衝け
こんばんは、#青天ナビ です。 一橋家で、篤太夫が本領発揮! 懐を富ませるため、さまざまな改革に乗り出します。 バージョンアップした篤太夫を、 ぜひご覧ください。 #青天を衝け
#青天ナビ#新納刑部 は薩摩藩の家老で、薩摩藩遣英使節団の団長として #五代友厚 と共にイギリスへ留学。欧州を歴訪し、ブリュッセルでモンブラン伯爵と商社の設立契約を結び、パリ万博への薩摩藩の参加についての協議なども行い、帰国しました。 #青天を衝け